没ネタ?黒歴史?集
パソコンの中身整理してたらでてきた謎の案等。
なんか自己論みたいのが出てきた。
2年前くらいの考えだ。この辺りからガンダムガンダムいうのは...ていう考えになってきた(抜け切れてないんですけどね)。
ポケモンSM出る直前くらいに描いたやつ。なんかしぶりんとか立花ちゃんとかそんな感じっぽい子だな。
ポケモンの小説を書こうと思った案(案だけで終わってる。)
これも大学3年のだいぶ後半期に考えた案だったか。ともかく劣等感とかいろんな想いに圧されていた時期だったので(今もゼロではないが)、そういう人物像をつくりたがっていた。
ツイッターというか、インターネットでありがちな、問題に対する論同士のぶつけ合いでなく、刹那的な感情論や揚げ足取りだけでdisりあう世界が嫌だったので、どうにかしようと思ったことがあった。
その一つの案。これを具体的な行動として動けていればなぁと思う。
ツイッターは来年やり直すつもりなので、このような信念の基に動いていきたいし、機会あらばそのような旨で発信をしていきたい。
わりと最近書き殴った会話劇の案。去年の11月くらいだったか。
この辺りでわりと考え固まっているので、ポケモンの創作小説(タイトルは『ポケモンME』としています)に登用しようかというところ。
これもその創作小説(ポケモンME)の会話劇のひとつとして、ライブ感()で書いてみた会話劇。主人公対ラスボスのイデオロギー対立みたいな。
今全体像を再構成していると、ここまで劇的で直接的な対立を描けるか分からないけど、こういうストレートな論のぶつけ合いはめっちゃ描きたい。
やっぱりガンダムオタクたるもの、戦いと同時に、個人の思想のぶつけ合いという劇手法が好きになっちゃうので...(特に逆シャア)
岡田麿里さん、好き
自分の感情や行動について、1から100まで喋りまくってくれる人が、本当に好きだ。
岡田麿里さんももれなくそういう方で、しかもその質が職業と密接に関わっているというのもなんだかステキな話である。
純の感情を出したくなくても出してしまう、みたいのは、おそらく職人気質なんだろうな。
個人的に、岡田麿里さんと富野監督はやはりどこか似ている。
根底にあるのが、「キャラクターの描き方」を第一優先としていること。
ここが非常に似ている。
そして、受け持った作品の多さである。
下積み時代から監督作品(脚本作品)、それらフィルモグラフィの多さ。
これは個人的な考えだが、量が多ければ質は伴わない、とかそんなことは作品づくりにも実は全くそんなことはないと思っている。
むしろ逆で、筋肉だとかと同じく、作れば作るほど(使えば使うほど)、その質は洗練されていく。
洗練とはいえ、絶対的な作品の質のことをいうというよりは、演出面の統制だとか、氏個人の技量以上に全体的バランス、といった具合の質だが。
というのはともかく、量をこなせるというのは、結果「燃える思いの暑さ」があるからで、つまり量が多いというのは、それだけ熱い想いがあるということだ。
両者はその点で非常に似ている。
富野監督作品も岡田麿里さんの脚本作品も、正直とうてい追いきれないほどだ。そして、これから網羅するつもりも正直ない。
生き方も違えば生きる年代も違う、更に性別も違う。これだけ相容れないようなお二方で、作品性もたしかに違う。
でも、本当にミクロな、「生の人間の、永遠に言語化できない『人間像』」をドラマに落とし込む姿勢が似ている。
かつて、富野監督は機動戦士ガンダムという作品を提示した。
この作品はシリーズ化し、時代の文脈に即して再解釈され、ことあるごとに新シリーズとして地上波で幾度となく放映されてきた。
今から4年前、その一シリーズである「鉄血のオルフェンズ」が放映された。
ガンダムの作品描写の一特徴ともいえる、「戦場における人間同士のやりとり」を描くため、人間ドラマ描写に定評のある岡田麿里氏が、同作品のシナリオ、脚本担当として起用された。
富野由悠季監督は、自作について語るとき、事あるごとに言うのだ。「人間ドラマを、アニメでも描きたい(描きたかった)」と。
その想いを原点として始動した機動戦士ガンダムだが、現代においてもその始点は忘れられることがなかった。
だからこそ、「人を描ける」岡田麿里氏を起用したといえよう。
「人を描く」。この一点で、富野監督と岡田麿里さんは、ガンダムという作品を通じて繋がった。
岡田麿里さんには、正直恋をしている。
この方に子がいようが、結婚をしていようが、関係がなく、とにかくその純の感情をそのまま持ち続け、そのまま大きくさせる、これは天才的ともいえる精神性だろうが、このような心持ちがたまらなく愛おしく、尊敬している。
これは多分美化だ。だから、恋をしている。
どうでもいいけど、誰かが自分のナニかを語るときに中学時代とか小学校高学年くらいのときに感銘を受けたやつについての話が出ない人はちょっと疑っちゃう。
手癖でナニかを延々と書くことは
一種の才能と呼ぶべきか?
問題は、その「手癖」で書く内容に、ある程度の信頼性が保証される情報に依拠されるものが感じ取らなければ、社会的に無価値と唾棄されそうな点である。
そして、このような文言は、僕自身のライティングスタイルについて、深く自省すべき所だ。
つまり、「発言にブーメランが刺さっている」。
それでも、延々と書くことは、個人的には楽しいのだ。
うすく広がるような、自分の中の価値観の連鎖。肯定されることもなければ、否定されることもない無味無臭な精神の内的空間。内在すれども際限のないような、思考がただペースト状に広がっていくかのような感覚が、ダラっとしていて心地が良い。
これは、一種のナルシシズムかもしれない。
考えている、ような自分が好き。
側からみれば、ただの自慰行為だ。
さて、ここまで書いたところで、当初の発言の観点に照らして、僕の「手癖」で書いた内容が、「信頼性が保証される情報に依拠されているか」を考えてみると…
やっぱりそうでない。
つまり、この記事は、無価値だ。
何かをあるように見せかけて、いや、見せかけるテクニックすら伴っていないかもしれない。だとすれば、本当にただの無価値だ。
これは、何に対してか、申し訳ない気持ちしかない。
仕事に関する話題は、一切しないことにする。
本来、僕の考えは、公私など全く分けることもないような、公の事なのか私事なのか分からないような生き方をしてカネを創り出せることが良くて、そうなりたいという理想がある。
記事のタイトルは、全くその理想と反するものだ。
しかし、もうそうするしかない。
僕は、仕事を辞めたい。
しかし、次の行動のためにカネがいる。
カネは、ある程度欲しい。となると、ある程度仕事を続けざるを得ない。
このジレンマを解消する糸口の一つに、
仕事への関心をなるべく薄くしたり、無情的になることで、変にエネルギーを削がれないようにする、というやり方がある。
日記にまで書くと、結局鬱憤晴らしなどというより、感情の再確認とその増強にしかなり得ないというのが僕の見解だ。
だからこそ、仕事に関する話題は書かない、とする。
これは、「イヤなことを自分の中に溜め込む」ことと同義だ。
しかし、それで良い。それこそ上等。
いつぞやも書いたかもだが、疲れやストレスで倒れる、体調不良などすれば、それを契機に辞められる。
このような、非常に弱々しいかもしれない覚悟だが、一つ方針を定めた。
そのため、今後このブログでは「仕事に関する話題は、一切しないことにする」のだ。
正直、この行動の正しさがどうとかより、「コンセプトに則って一つの行動を為す」ということ自体が重要だと思っている。なぜなら、事後の振り返りができるからだ。
このような行動を行った結果、自分にどのような便益が生じるかは分からない。しかし、一度決めたことなので貫徹してみせよう。
そして、そのような方針だからこそ、別の話題を探らねばならなくなる。
というか、これが狙いだったりする。
やっぱり、僕はオタクなので、毎日の疲弊の話なんかより、自身の関心ごとについて書きたいのだ。そして、そうする努力をすべきなのだ。
オリキャラ女の子
できた。ある程度煮詰まったし、1日で描き終えられたのが個人的な進歩である。
嬉しい〜〜。
というわけで、いつぞやの「創作ポケモンの主人公の女の子」の服のデザインを考えた。
そして、頭部のアクセサリもややブラッシュアップ。
ヒメリの実の髪留め(?)は、葉の部分を途中で切ってリボン風のシルエットにアレンジし、さらに実の染料で全体を赤く染めているという設定。なびいている紐は知らない。けどちょっとお気に入り設定。
コンセプトが民族衣装なので、それっぽく彩度高めの色調で塗った。
ん〜〜スカート描くのかなり手癖でいっちゃった…
わりと勢いで描いてるので、やはり身体のバランスはなんとも〜〜な感じ。
女の子描くの楽しい。なんか最近ずっと女の子描いていたくなる。仕事いらねぇ〜〜。
発想の起点。
衣装調べつつざっくりまとめる。
線画。
ちなみに服のカラーリング、奇しくもvガンダム の女王マリアと一致してしまった!!
深層意識でマリアの癒しを求めているんだな…(真顔)