はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ネット恋愛の成就

どう考えてもきついきついきついきつい!!!!!!!

 

 

画面上でのやり取り以上にはなれないもどかしさとつきまとう空虚さにふとしたときに襲われる。

 

 

でもすっっっごい向き合いたいと思う。

 

 

 

正直、人生でかなりまじめに人のことを好きになって向き合っているが、

僕の本性はどうやらメンヘラタイプのようだ。

 

好きの本質が寂しいと隣り合わせ、それでいて権威主義レイシスト気味なものが混ざり合わさってとてもいびつな本性を持っている。

 

それを自覚しそうになったときとても怖い。

しかしそれをも曝け出したい思いがある。

かといって、全てを、いきなり受け入れて欲しい!!!!!!!というのはコミュニケーションの拒絶である。

 

僕の救いは多分、自身の性質について、多少は自覚的であるということだ。

 

しかし、抑制的な発言は、無難すぎる人となりを演じることにも通ずるだろう。

それは不誠実にも近いのではないか?

無関心と飽きを招くのではないか?

 

 

………

 

ネット恋愛の「成就」って、何をもって成就という?

結婚とかか。

 

「彼女は死んでも治らない」

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あまりしないのだが、「ジャケ買い」をした。

表紙のイラストのタッチ、すっっげぇ好み!!!!と思って目をひかれた。

そして、タイトルや設定の奇天烈さに、次に惹かれた。そして購入。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

主人公をして『自称コージーミステリー』という作風の、「とにかくテンポよく話が進むミステリー(風)の物語」という印象。
ただ、この作品のスタンスがミステリーであるか否かというところは、このお話の根幹に関わる部分である。

とにかく感想は、終盤の展開とは切っても切り離せない。

主人公の人となりは、とにかくヒロインである沙紀ちゃんが好きということ。
そして、その「好き」は、どのような事情からだったのか?という部分が、物語の根幹である。
そして、その想いのあり方が自然なのかどうかということを問うキャラクターも登場する。
熊谷乃亜という女の子だ。彼女は、羊子が沙紀ちゃんが好きなのは、義務感的というか、対等な距離感とは別だということを指摘する。

これは確かに正しいことが物語上発覚する。
なぜなら、羊子は過去に沙紀を殺していたのだから。その罪悪感から、同じ轍を踏むまいと羊子は、沙紀を想い、行動をするようになった。
そして、怪奇の力によって彼女は生き返った。

これは、二人の身に降りかかる困難を、助手の昇くんとともに解決していくミステリー...に見せかけて、全くそうではなくて、その困難の大本は、主人公たる羊子が引き起こしていたということが発覚する。
その因果の渦を解消すべく、主人公はどう向き合い、行動するのかというところがこの物語の確信である。

そのため、事件が発覚し、解決をすると言うところのディテールは、非常にあっさりしている。
超常的な力が作用し、事件を収束させる。それはなぜ起きるか?なにが発端であったか?
このことと向き合うことこそが、この物語の軸なのだ。


そのような見方でいえば、この作品は、規模は小さいかもしれないが、むしろ「日常的セカイ系」に分類されるような作品かもしれない。

羊子と昇、沙紀の三人の関係性は、過去の出来事から魂が抜けるだとか、何度も死ぬだとかそのような奇異な現象と隣り合わせとなってしまっている。
そのことに疑問はありもするが、踏み出そうとしなかった主人公。
友達が増え、増大する違和感と向き合ったときに初めて踏み出そうとする勇気がわく。
そのようなストーリー構造事態は、健全であると思える。

最終的には、羊子が望む「コージーミステリー」を思わせる日常の風景に回帰する様子をみせ、物語は収束する。

物語の開始時、羊子は「女子高生を演じるナニカ」であると思った。
なぜなら、年の割に妙に落ち着きをみせ、社会一般論的な通説には素直に従う、感情の起伏はあるものの行動が事態の解決のために最善手をゆく(ようにみえるだけなのだが)からだ。
しかし、物語とともに、羊子の内情がつまびらかになる。
そうするに従い、「女子高生を演じる記号」から、「キャラクターそのもの」へと変貌していく。
このような、メタ・フィクショナルな構成から、フィクションそのものへと物語そのものが没入していく物語構造がとても面白く感じられた。

 

 

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ミステリー作品、進んで読まない人間なのだが、この作品はわりと読めた。

 

というのも、本質は「ミステリーでない」からだ。また、密室殺人だとか、代名詞的なシチュエーションへの批評性をももった作風ともなっている。そのような作品独自の、一歩引いた視点が個人的には楽しめた。

また、そのようなロジックを展開できるのも、文芸作品ならではだな〜〜〜〜と思える。

 

うーん、僕のアンテナよくわからないな。

ポップなものを追いかけたいが古典SFとかああいうのも触れたいというジレンマ、ニューウェーブ的なものとか…

文芸作品のいいところは、「作中のキーとなる事象に対する根幹の問いかけ」を尺をたっぷりかけて展開できることだよね。

映像作品には、尺やテンポの問題があるから、そればかりに焦点を当てると退屈な作風になってしまう(映画アニゴジ3みたいな。個人的には好きだけどね)。

 

 

本当に時間が足りない。

あと、作品の様々なイマジネーションにコンスタントに触れるのも、それはそれで案外衝撃が強かったりするので、自分としては軽く反芻する時間も欲しかったりする。というジレンマである。

 

てか、消費するばかりの何者かになってやもという疑念も…

 

 

片想いであるのか?

ふと考えると、そのように思う。

 

「彼氏でもないのに、…」

「お前、本当に最高の友達だよ」

 

よく覚えている言葉だ。

 

 

でも、僕たちは、本当に話をしていると思う…

 

 

だから想ってしまう。

そして、想い合っているでろうことを望んでしまう。

 

「ここまで話すのはナオくんだけ」、

「ナオくんの…がすき、…なところがすき、…がすき」、…

 

逆に、こう、色々なことを言われたこともよく覚えている。

 

 

 

総括してみると、やっぱり分からない…

 

 

しかし、少なくとも僕は、異性として、大いに好いている。

「愛するから、愛してほしい」というのも、傲慢なようにも思える。

だから、僕がその人のことを好いている、思っているという事実を、僕が自覚するだけで、良いと思……

 

 

 

えるわけがねぇ!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

最近は楽しいが、そんなもやもやもする。

 

人のセックスを笑うなとはいうが、

本当にそう言わせてほしい。

 

いや、全くセックスの以前の以前でしかないが、笑わないでほしい。

 

 

 

男の恋愛バカみたいのは、側からみるとちょっと気持ち悪いかもしれない。

 

とにかく、想いや愛は、密かに暖め、育てるものでありたいという気持ちがあるので、もう記述はしない。

 

しかし、書きたい衝動が湧き上がってしまったので、この記事に関してだけは、書いているという次第である。

 

 

『斎藤さん』の話 2

幾人か、女子と個人的に連絡を取り合うことにした。


それには、相思相愛にも近い、情があってそうするのだ。

でも、やっぱり思う。
そういうのは、さみしいのだ。

コミュニケーションのためのコミュニケーションでしか、ないのだ。

そして、男には、時間に価値性や、やることへの意義なんかを、考えてしまう、
意味性を追求してしまう情けない性がある。

それは、たとえば、会話の果てに、セックスを求めることもそうだ。

女性といて、気持ちよくなること。

男の場合、そうであろう。

しかし、僕はどうやら、その欲求とはちょっと、違うところにいるらしい。
いや、そのような欲求は、ないことはないのだが、それ以上に、つながりそのものを求めている。

しかしこれがたちが悪い。

「つながりそのものを求める」という、実に具体性のない、目的性の薄い動機は、
自らの行動の方針をブレさせる。

僕には、ささやかな居心地のよさだけでも十分とすら思える。
しかし、しかし、ささやかすぎると?何も得られないのではという虚無感。

そういうとりとめのなさと、終わりの見えなさが、僕を包むかのように縛る。
そしてそれが、僕を疲れさせる。

しかし、自分でそうなりにいったのだ。
自分で、つながりを求めたから。

そして他者から好意を見せられても、自分でそれを否定したくなる。こんなことは空しい、と。


かといって、やはり僕は本能をそのままむき出しにして異性と会話をすることはできないし、そうしようという欲求もない。

だから、アプリ上でよくみるような、淫語を連発したり、名前につけたりするような同性の輩どもなどは、唾棄したい気分にもなる。

「僕とお前たちは違う。お前たちは、欲求そのままに動くケダモノだ。僕は違う。僕には理性がある。身につけた知性がある」
このような気持ちだ。
しかし、動く土俵は同じ_____そう考えると、僕もケモノ達のなかの一匹にすぎない。

そして、その事実に絶望をする。


では、そこから脱却する方法は、ナニか?

答えはとても簡単だ。
「このアプリを辞めるということ」。


だから、僕は、このアプリを消去した。

ナニにも、ならない。

僕にとって、齋藤さんというアプリの感想である。

『何にも、ならない。』

自分が男であるという事実には、少し疲れる。
しかしそのことに、楽しみや安堵をも感じる。

自身の性別を受け入れられない時がたまにあるが、今、そういう気分だ。


そして、僕が男性、女性という性別観を考えようとするとき、
自身の頭や、体験、体感でもってでしかそれを考えられていないという実感がある。

つまりは、それを脱却するためには________


『本を読め』、
『そういう考え方の人の話を聴け』

ということだ!!!!!!!!!!!

 

 

 

_______________________________

 

しかして、僕は、どこか惹かれる人と、細やかだが素直そのままに話をする人と、

話をすることができている。それは、今もそうしている。

そのことは、心地よいものだと感じる。

 

『斎藤さん』の話 1

齋藤さんを、またやってしまっている。


今度は、通話を仕掛けるのでなく、生放送____いわゆる『ハンカチ中継」を行った。
そして、自分のしたいことをしようと、自己アピールもかねて、発声や滑舌の改善もかねて、そこで小説の朗読をした。


ぽつぽつと、人はきた。
ある人のコメント。その内容は、こうだった。
「いい声してますね」
「滑舌いいですね」

そう、褒められた。

半ば、そういう風に、チヤホヤされる目的でもあったのだから、当然、
褒められて、嬉しかった。満足をした。


人がきたから、朗読から一転、それなりに来訪者と雑談をした。


会話の折、きた人が、僕より年下で、女性だとわかった。
そういうことがわかると、少しばかりセクシャルな意識が僕の脳をほのかに支配し始める。
この子に好かれたいとか。そんなことを、どことなく念じながら、しゃべってしまうのだ。

僕はこの中継で、何がしたいのだろう。

女の子から好かれたい?
オタクであることを認められたい?
声とか、滑舌とか、知性とか、お絵かきとか、自身の能力を尊敬されたい?
ルックスを褒められたい?
寂しさを紛らわせたい?

いろいろな欲求があった。
褒められると、刹那的に、少し欲求が満たされる。

でも、そんなことがあっても、むなしさは消えない。

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●刹那的な「スキ」


 実は、先の「ルックスを褒められたい」という記述について。
僕は、夜寝る前に少しだけ、顔出し配信をした。
男の顔出しなど、ましてや、僕のような新参者など、大して見られもしないだろう、という思いからだ。
それでも顔出しをする。というのは、根底の____『褒められたい欲求』からだ。

で、人が来る。
女子が来る。

彼女からいわれる。
「声も、顔もめっちゃタイプ。韓国のアイドルにいそう(この褒め文句にはなんともな思いをしたが)」
「頭よさそう」

その後。その子から、個人メッセージがきたのだ。

「好きすぎて、個人メッセ送っちゃいました」
「カカオで話せませんか?」

それから、たわいない雑談を、メッセージ上で少しばかり交わした。
次の番、僕らは通話をした。


案外、話は弾んだ。
弾むというと語弊はあるだろうか。
話題が大きく盛り上がるとかではないが、ささやかに、でもにぎやかに、僕らは話をした。

向こうは17歳の高校生。僕は、24歳の社会人。

彼女の人となり。
インターネットがなければ、とうてい接点など持つことは遠いような性格の人である。

つまり、「明るく元気なタイプの人」だ。

そういうタイプの人は、フレッシュに、そしてナチュラルに人のことを好きになる。
好きというのは、エロティックなニュアンスを含むものでない。
彼女の他者への好きは、もっと本能的な、ちょっと刹那的にも思える、「人への好奇心そのもの」としての好きだと思った。
つまりは、転校生が来たら、「ねえ、あなた、どんななの??」「どこからきたの?」と、絶えずに、ストレートに聞くかのような。


 僕は、本当に心を許した人を相手に話すとき、その話し方は、ひどく文語的な物言いや、言葉を使ってしまう。多少衒学的になってしまうともいえるかもしれない。
それはつまり、いわゆる「オタク特有の話し方」だろう。そのようになってしまう。

彼女との会話は、楽しかったし、僕は彼女に心を許した。
だから、オタクっぽいしゃべり方をしただろう。

しかし、彼女は、そういう僕のしゃべり方を楽しむのだ。
「そういうの好き」
「頭いい人って感じするね」
「めっちゃ標準語」
「かわいい、照れるのもかわいい」

ここまで肯定の言葉を並べると、さすがに記述中の今でも少しおもはゆくなるのだが、
とにかく、褒められまくった。


会話が続く。時間が流れる。夜が少しずつ更けてくる。
そういうのが、両者をムーディにさせるのかはわからないが。

「ナオくんに好きになってほしいな」
「隣にいてくれたらいいのに。さわってほしい」

そうもいわれる。

間をあけて、僕は彼女にいう。

 

 

「○○(その子の名前)、好きだ」

 


すぐに言葉は返さないが、少ししたあと、
高揚したような声音で返事が返ってきたことは覚えている。

「ねえ、そういうのほんとずるい」とか。
そんな風に言われたのだったか。

 

*************************************

 

 このような好き合いは、僕にとってはごっこ遊びでしかないと思える。
正直、画面上の刹那的な異性への欲求を満たす行為というのであれば...
セックスフレンド的な、「画面上でオナニーをし合う」行為の方が、後腐れがなくて健全な気がした。
だってそれなら、両者が身体の快感を得たあとは...いわゆる「賢者タイム」が訪れて冷静になれるからだ。


 僕は確かに、彼女に好きといった。でも、確実にいえるのは、心底からの好きではない。
僕は、女性に自分のジレンマを理解してもらいたい欲求がある。
だが、彼女から発せられる言葉は、結局のところ「僕のことが好き」というニュアンスでしかなかった。
僕のことが好き。僕というより、僕という人間がもっている、表象的な記号が好きなのだ。
『表象的な記号』。
声のトーン。顔の雰囲気。話し方。文語で用いられがちな言葉を、あえて話し言葉に多用することで感じさせる、知的であるという要素(こんなのハッタリでしかない)。

彼女はたぶん、そういう記号たちに気持ちよさを覚え、それで高揚し、そして好きになったのだ。
それは刹那的な判断だと思う。

たとえば、男が女性をみる。胸が大きく、安産型で、しかし引き締まったウエスト。つややかな長い髪___肩まで伸びたストレートヘア___をもっている人だとする。そんな女性に、性的興奮を覚えるのと、たいした変わりがないと思う。

 彼女は。動物的に、本能的に、刹那的に僕のことを好きになった。

 

____そういう女性だとわかった。
そういう女性は、いやだ。
理性的なものを感じないのは、いやだ。


だから僕は、彼女を少しもてあそぶような気持ちでいった。


「好きだ」

と。
僕は、人を悦ばせられる男だと確認したかった。

おそらく、彼女は僕にそう囁かれ、高揚しただろう。

その事実を実感したいがために彼女に告げたのだ。

心底からではない、スキという言葉を告げるのは、恐ろしい行いであると分かる。
それは詐欺師の所行にも近い。そして僕は、それをした。

 

 

***************************************

どういう事情かはわからないが、それから、彼女と僕が話をすることはなかった。

が、それでいいと思う。
心底そう思う。

画面を通じてでしかないスキの応酬は、やはり僕には辛い。本当に辛い。
だって、実感を得られないもの。僕にはそのような感受性しか持てない。


要するに、「遠距離は無理」ということだ。

また、いっちゃった

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ララって名前つけてた。

デグーだ。アンデスの歌うネズミというのだそうだ。

 

実家で、姉妹飼いしてたんだよね。

暑さにやられてか…そのままダメになっちゃった。

 

 

 

………………………………………………

ペットとの向き合い方について、考えていた。

 

しかし、答えが出ない。

それに、僕は生活に追われていた気が今でもする。

そういうのを言い訳にして、心の中で向き合うことと、行動にすることを避けていた。

 

だから、今はこう思うしかできない。

 

「あなたの死は無駄にしない、あなたの分まで僕は生きて、頑張る」

 

とてつもなく、月並みで、安直で、僕自身嫌うような直接的もいいところの理想論的台詞だが、今はこのように思うことでしか、自分に落とし所をつけられない。

 

………………………………………………

 

命を与えられた生き物それぞれに、確かにその命に価値の差は、哀しい事実だがあると思っている。

 

しかし、共生を、共存を考えたとき、互いの命は尊重しようと思うだろう。

そのように思えたとき、初めて理屈以上の情愛を感じ取れるのではないのか?

 

共存しようと思う相手が、種類が誰だからどうだということは関係がなく。一緒にいようと思えば…愛そうと思えるはずなんだ。

 

現代人男女の感性の画一化

というのはある気がする。

「コト」消費化は著しく進むし、二次元系のオタク文化に触れる人なら、昨今はアイドル的キャラクターで好きなの(推し)いるっていう人が大半なんではないだろうか。

しかも、それは性別が関係なく。

とはいえもちろん、男なら女キャラ、女なら男キャラ、というのが大半だろうが…。

 

おそらく、好きのなり方も、消費の仕方も、性別差はほとんど関係がない。

コンテンツがあり、それで売り出すキャラ群が、男性であるか女性であるか、それだけでファン層はほとんどキレイに二分される気がする。

 

…ということを、ある男性アイドル系動画のコメント欄をみて思った。

 

 

 

ん〜〜〜〜〜〜なんというか、異性のことを知りたくて、その関心先は何か、を求めて、このようなことをしてみたのだが…

 

人の趣味嗜好は、本当にセクシャリティとは切っても切り離せないということを、強く強く感じる。

要するに、こういうことをしていると、他人の性癖を(勝手に)知った気がしてしまうのだ。

 

つまり…反対もそうなんだろうな。

女性が、ガンダムだとか、アイマスだとか、男オタク!って感じのコンテンツにフラットな状態で触れたとき、どう感じるのか。多分、ムズムズするのだろう。

 

 

…こういう事を考えたとき、いわゆる「国民映画的」作品は、そのようなセクシャリティはかなり切り離されていることに気づいた。

ドラえもんとかああいう感じの。

コナンもわりとそれに近い気がするが、女性層かなり取り入れてもそういうセクシャリティ性は感じないし、あくまでもサスペンスが主題だから、そのあたり絶妙な塩梅だなと感じる。

 

 

 

僕の想像力よ、さらに鍛えられてくれよと願うことがある。

それは、「男性アイドルを主観的に好きになれる」想像力を手に入れたいということだ。

 

これは、個人的になかなか難しい。

 

…しかし、現在のオタク文化の中心は、「男女それぞれのアイドル的キャラクターをたて、それに様々な方法で接触ができ、インタラクティブ性があり、実イベントとしても消費できる」、コト消費的な文化が大きい気がする。

 

僕は、この「コト消費」の文化に慣れていなければ、その対象先たるアイドル…男性アイドルキャラというものにも、やはり慣れることができていない。

 

こんなにも、架空のキャラクターに感情移入をしやすい人間なのに。

 

やはり、「男性アイドルとなる自分」なんてものは、到底想像し得ないのだよな。そこなのかもしれない。

正直、僕に理想があるとしたら、性的魅力をアピールしてたくさんの異性の気を惹く…

というよりは、圧倒的な自身の能力を見せつけることによって、男たちから一目置かれ、評価され、称えられることの方が願望としてはある。そこなのかもしれない。

 

だから、そういう男たちは、異世界で圧倒的な力を振る舞う者として君臨することを望むのだ。

だから僕らは、突如として現れた巨大な身体たるロボットに、世界の危機を救うために選ばれた戦士として搭乗することを望むのだ。

 

…なんの話をしているやら…