ただの日記
歯医者に行った。
ドラッグストアにて日用品を補充した。
業務スーパーにて買いだめをした。
午後は料理を作り置きしておいた。
夕方、ホームページビルダーを触ってみた。
が、煩雑さを感じて手を引いてしまった。
気持ち的に、どうも身が入らない
夜、初めてレーザー脱毛器を使ってみた。
セルフレーザー脱毛は少しドキドキであったが、なんてことはなく、熱さと痛みはすぐに慣れた。お顔を全般的に照射したのだが、効果は如何程なのだろうか…
ひとまずは、週に2、3回のペースで続けようと思う
本当は、何かお絵かきをもしたい気分なのだが、あれやこれやしているうちにこんな時間になってしまった。
休日だからと、ゆったりと過ごしていたらすぐ時間すぎるのな。今日は大したインプットもしていない。
しかし、明日も休日である。
なんと幸せなことだろう…
買い出しと作り置きをした翌日なんかは最高だ。
それ以降、買い物も料理も、しばらくしなくて済むのだから。
ああ〜〜春先にはお髭薄くなってるといいなぁ〜〜
おわった〜
2:00〜10:00
14:00〜20:00
14時間労働
しかし考えてみれば、それでも10時間は可処分時間になるのだな。
ガチでほんとキッツイけど連日なのでどこかワーカーズハイチックでもある。
上役の方々は1日中オフィスに張り付いていて司令塔+外交やってるっぽい。
そっちのよほどきついだろうな。いつ寝てるんだろう
仕事というもの、歪みはつきものなのだろうが…
職場の年配の先輩方の愚痴みたいのは
「俺はこんなに苦労してる、あいつはここがズリー、ダメ」という価値観からくる言葉の数々と思えた。
それを非難する気は毛頭ない、事実それだけ働いている、働かせられているのは事実だし。
労働というものに、疲労諸々におそらく、考えるリソースとか、本当に持っていかれて、そうなってしまうのだと思う。恐ろしい話だと思う。
小説1984でも、マルクスの資本論でも、支配層が下の物を「下たらしめるロジックと手法」は述べられていた。そのようなものだろうと思う。
僕は、そういう愚痴を、うんうんと聞いていた。そのことに過度に同調するでもかく、意見をするでもなく。
このスタンスは「モモ」っぽい。
で、それでもいいのだと思う。
ミッドナイトゴスペルにて、「悟りを開けるまでは傍観者であるべきだ」という言葉があった。
僕のスタンスは、それに準じるが良きなのかもしれない。
なんか、今日は事象に対して引用を用いた感想をとてもしてしまった。
脳の働きがしっちゃかめっちゃかになってるんだと思う。
明日休み。嬉しくて泣きそう。
でもなんだろ。世の中にはもっと働いてる人がいるんだよな。
あぁ〜なんか…強さというか強かさというか、ほしい、そういうのがほしい
購入物
今日…
仕事仕事アンド仕事
明日もちょっと現場の体制変わるのでキッツイ。
2/3になったらお休みなので…頑張る。
ちなみに来月は有給を消化することが許されているのでなんと28日間のうち実質13日間分ほど休める。神か!?!?!?
そのぶん仕事のミス許されんし手際よくこなさんとだけども。
それにしてもガチで嬉しい
そして3月のが休めるかもしれない、有給使い切れなかったら買い取ってもらえる模様
以下はAmazonの買い物↓
しょうが湯の粉とランニング用ソックス三足セット。
ポモドーロ・テクニックの本と、
それを有効活用できそうなタイマーを購入。
本はまだ読んでいない
自分の仕事の疲労具合と本のインプットをするキャパシティが釣り合ったいないと感じているからである。休日に読み始める予定。
タイマーはこんな具合。
ダイスの容量で、上の面がその数字×分として、面を上にした瞬間すぐさまスタートする。
ただ傾けるだけでカウントされるので、マジでお手軽。ボタンタッチすら必要なし。
●ストロボ・エッジ 2巻
主人公・仁科子ちゃんのたくましいメンタルを感じさせるシーンが心に響いた。
仁科子の蓮への想いは、
「好きになった相手が自分の理想そのものであるとして、過度に神格化して、例えばイケメン!スキ!という感情から「カッコいい⇨頭がいい⇨スポーツできる⇨リードしてくれるetc...と無限に想像を、一方的に膨らませてしまう、というような「独りよがりの恋」を明確に脱している。」
自分の価値観で以って蓮を好きになり、その好奇心を膨らませ、期待と現実のギャップに前向きな感情をもって望む。そして、その瞬間瞬間を大切にする。
仁科子のこのような恋愛観が、本人の主張や行動から明らかになる。
「偶像にとらわれない、自分から信じる『好き』」。
この姿勢はとても尊いと思った。
この感情を…人は「エモい」と呼ぶ!!!
ネトフリで最近みていたもの
全部一言で感想をつけていく
●テラスハウス 2012~2014編
てっちゃんが最初から最後までいたので主人公って感じで一番応援していた
生の恋愛を、教えるでなく、そのまま映すので、なんというか皆ロマンスを求めるけどそうでなかったりするよね、と共感したしなんというか今の自分を受け入れられるような気分になった。
あと劇場版てめーはだめだ 出演者の扱いが雑すぎ。冒とくしているまである
●ミッドナイトゴスペル
視覚体験、視覚実験という言葉が似あう 英語聞き取れないから字幕で見てるけど
文字を読みつつだと話が入ってこなかったりする ほんまに日本語訳ほしい
宗教観、医療と死生観、表現者としての死生観等をインタビューしつつ映像としてはコピックで言うところのRV~Vくらいの色彩をメインとした画面でスプラッタが繰り広げられる。ハッピーツリーフレンズといえばわかりやすいか。すんごい組み合わせである。映像表現とはすばらしい!
●ガンダム めぐりあい宇宙
冒頭だけ見直したい。WB隊vsキャメルパトロール隊は超・超名シーン。ほんとに大好き。そして以前はアムロのプロフェッショナルそのものである冷淡な立ち回りにばかり目を奪われていた(もちろん今も好き)が、久々に見返して気づいたことがある。
WB隊全体も当然練度が上がっていて、その差はキャメル隊と比べると歴然である。
作戦行動の展開の速さ、ブライトの判断を絡めたいわゆる報連相のスピードと的確さなど、そういった部分でも差が出ている。ここまでの描写を当時からしていたのかと思うと改めて衝撃を受けた。
ガンダムがキャメル艦隊真上上空から高速で迫ってライフルで的確に、ムサイの砲塔・エンジンブロックと確実に当てていく場面はほんとシビれる。いつ見ても恍惚とする。
文字通りの「無駄のない洗練された動き」。MSの運用法もまさに奇襲からの電撃攻撃で一瞬で艦船クラスを倒すというキルレシオ的にもとても理にかなっていて「フィクションの中のリアリティ」を作戦面からとかでも感じられる。ああ~すこ。
やってることは戦争なので当然こんなことをすればムサイの中の兵たちは爆発で死んだり、爆発で割れた壁から宇宙空間へと突如放り出されたり、メットをかぶって気密性を高めていようが結局は漂流する、こちらは餓死という未来にさらされる云々...と考えると、アムロは本当に恐ろしいことをしてもいるのだが。当然ニュータイプという想像力はこれを無視はしないが「戦闘のため 自分のため」等ある意味割り切りを見せ、知ったうえか、もしくは考えないようにしてか、そのうえで「迷いなく殺す」のだ。
なんかグラフィックがすごいなぁ そしてこのグラフィックで肉がぶっちゃけたりするゴア表現はどうなのだろうと思って視聴
感想はねーちゃんのおっぱいしりって感じだった
正味GANTZは面白いと思ってるんだけどなんかなじめない部分がある。それが上にも書いたおっぱいおしり である。
「真面目で優しい俺だけどつらい目にあった、がんばった そしたらめっちゃナイスバディのねーちゃんが寄って微笑んできてくれてセックスしてくれた ねーちゃんエロい。かわいい。おっぱいきれいおしりもきれい。」みたいな印象を受けるんだよね
あくまで俯瞰的な作品なのに「俺」の目線が強すぎる
これはフェチズムなんだが、ボンキュッボンで男に優しいだけが女の子じゃねぇ!という物足りなさを感じてしまう
というのはともかく高重力発生させる銃とか表現かっこいい...
なんだかんだいってるけど加藤君のキャラ造形自体は真っすぐですこ。それと(全体的な)女性の絡め方と女性の描き分けが不満だという話である。
おもろかった。ちなみに同作でタイムロッキングコンテナが登場する。中にスマホを入れて封印するのだが、家族の一員がそれをハンマーでぶっこわして結局スマホを触り始めるという場面がある。
僕もこれ持っている。が、さすがにそこまでしねぇ...てかもったいねぇ!という感想を僕は抱いた。
要は「あなたたちが触っているSNS云々は企業の手によるものだ、そしてTwitter等、企業やテクノロジーがヒトの精神まで影響を及ぼしたことは、前例があったか?いやないだろう、だからこそこの新たな問題には規制ないしは明確な社会課題として一考すべきなのでは」という主張であった
事実かなり正しいと思う そして僕のふるまいはやはり企業の体のいいコマでしかなかったのだなというむなしい思いも抱いたりした
この作品だけだとひたすらデメリットのみを抱いているので、話半分に聞くような姿勢が必要だと思った
「監視資本主義~」のたとえ話で出てきた言葉がトゥルーマン・ショーだった。
名前は聞いたことあるけど観たことないなぁと思って観てみた。アイデアが光る作品。
ここは世界であると思いきや実は箱庭だ、箱庭にはそれを操っている者がいる、じゃああなたはどうする、箱庭を壊して新しい世界を望むか?というようなストーリーテリング。人によって多角的な見方ができるだろう。ある種テラスハウスはこれにかなり近しい。僕はぶっちゃけこの作品をどう自分の中に落とし込んでいいものか分からないでいる。面白い、アイデアすこだ、という感想は確かに抱いている。
●宇宙戦争
トライポッドいいよね...いい...
以上()
カタルシスのNASA。名前に比べて地上でごく個人的なお話に終始する。しかし最後のナレーション「宇宙生物たちを打ち破ったのは地球環境そのものであった 地球という大気は彼らが生きるに適さなかった だから自壊していった。人間や地球の生命は、長い年月をかけてそこで生きるすべを身につけたのだ 人類の勝利ではなく、その営みの勝利だった(意訳)」というのがとっても印象的であった。
しかしこのような切り口、実に文芸作品的である。というのも当然、原作がジョージウェルズさんのものなのだから。
...あれ、じゃあ小説を読むのが一番じゃね?
という感想を抱いた...。
●BEASTARS 第二期
すんげーおもろい。この作品はビジュアル面、キャラクター造形、舞台設定、ストーリーテーリング、主題歌諸々とっても拘りを感じられていておもろい。
あとビビるのが、これ女性作家作品なんだよな...?
レゴシ君の内面描写、ほんとに「お前は俺か」と思う事ばかりでなんでこんなに男というものを描けるんだ、とビビる。レゴシ君ってどことなく罪と罰のラスコーリニコフ的なものを感じる。
●悪の教典
SATSUGAIシーンだけ観た。悪趣味を突き詰めたかのような、暴力と陽気なポップスという組み合わせ、このコントラストの不協和がむしろくせになる。
エヴァでいえば、破のアスカ参号機をダミープラグでボッコボコの肉塊にし、そのバックで皮肉のように「今日の日はさようなら」が流れる。
ガンダムサンダーボルト。ダリルはじめジオンの狙撃部隊の攻撃に、無残にも次々と落とされていくムーア同胞団の面々。その死を労るか、むしろ無駄であったと嘲笑するか、死とは裏腹に陽気にも流れ続ける「あなたのお相手」。
キングスマンでもあったかな。敵対組織の幹部たちが次々と頭を破裂させるシーン。
悪の教典における殺しも、その系譜だ。
倫理的なことを一切抜きにしていえば、殺しとは映像における一種のカタルシスだ。
それを視覚や聴覚で多感的に高めてくれるからこそ、ポップスのような明るい曲が、むしろ殺しという描写を「気持ちの良い者」へと昇華させてくれるのだと思う。
そして、殺しを映像で描写するというのは、「フィクションの中のいち表現」を逸脱しえない。どこまでいってもフィクションである。
とすれば、フィクションの中の映像表現のひとつの極致は、死の直接描写=殺害
というわけだ。
殺しのシーンだけを観れば、それをとても肯定的に描いているような錯覚すらおぼえるが、エンターテイメントとは、「気持ちの良くなる、なれること」と同義だ。
とすれば、気持ちよく殺しを描く同作は、まさにエンターテインメントとして実に潔い在り方をしているのではないか。
そして、このような持論があるからこそ、僕は、えげつのないほどの殺しを描く作品を愛している。
そして、そんな自分が人間として真っ当でない自覚があるから、幸せには死ぬべきじゃない、とも思う。
●オールユーニードイズキル
リタかわいいよね...
※ただし漫画版な!!!!!
漫画は読んだことあったけど映画は未視聴だったので観てみた。
114514回死ぬ経験つらすぎる…
普通におもしろかった(まじで小並感)
やり直しまくって段々強くてニューゲーム、ていうのを2時間のフィルムで飽きないようにまとめるの大変そうなのにかなり面白くまとまっていた
機動スーツはカッコイイんだがシルエット的な武骨さがなんともうーん。
一言とは。
SAYONARA IT PASSPORT
更新が途絶えたり勉強に関することを書かなかったりしていた今月後半期。
しかしてなお、いや当然というべきか、試験当日はやってくるものだ。
同試験は5日以上前であれば試験日を先延ばしにすることも可能である。
事実、前回受けた時はその日程を先送りに、先送りにしていた。
それで不合格。最後の最後まで勉強したくなくて落第。ダ、ダセェ...
ああ...なんてどうでもいい前口上なのだろう...
(そもそものブログの存在時代、というのはさておき!)
本題。ITパスポートの二回目を受けてきた。
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2021/01/25
手癖
押井守監督の推しの映画の特集みたいな動画観つつ描いてた
第一位は『ブレードランナー』。
案の定すぎて、草!!
「SF者は必ず通らなければいけない道」
これは本当にそう思う。
イマジネーション映画としてのブレードランナー、
スペクタクル表現としての2001年宇宙の旅は教科書たるべき
・ホリミヤ
↑3枚目すこ。「オタクですよね?」へのカウンターとしての実用性を感じる
近年というか、見渡してみると案外和が多くもない気がする正統派ジュブナイルラブロマンス系。として気になったので、ネトフリで「ホリミヤ」視聴中。
つっても 第二話までの感想は …
「う〜〜ん」。
美麗なイラストがそのまま動いているような線のタッチはめっちゃすき。だし、直球気味のイヤミのない純愛路線も好き。
なのだけど、どうもシチュエーションを繋いでいくことでお話作りをしているようなのがもどかしい。
会話劇の連続で各人物の深層意識の積み重ねや掘り下げをして「物語的に」人物造形を行うというより、
「ここのこういう会話があるとこのキャラかわいいよね」というような、劇そのものの連続で20数分間をつないでいるように思える。
なんか雑いく思えたシーンの一例。
ベランダで会話する堀さんと宮村くん。
「なんでここで会話するのか」への持っていき方はなく、急にここで会話している。
この一連のシーンは「いつの間にか仲良くなっている二人」の描写なのだが、
それまでの流れや、絵的にもやはり「平たい構図での立ち話的会話劇」ということで緩急をあまり感じない。
おおまかに言えば、その話数ごと大(深)テーマ、何?って気分になってしまう。
ゆーても絵ほんとキレイっす。
メイン二人の心のつながりやビジュアルはやっぱり好きなんで観続けたい。
・キャラクターの髪の色
実生活を想起させる作風にも関わらず髪の色が真っ赤とか真っピンクとか抹茶色とか。
描き分けにあたっての差別化表現としての「色分け」を選択しているにすぎないようでちょっと安易に感じる。キャラ各々は制服を着ていて、服装自体は色含めて統一されているのに髪色(と瞳)だけが違っている。違和感を覚えてしまう。
2021/01/22
テラスハウス2013~を観つづけている。
そろそろ終盤である。
観ていて考えた。
人との距離感。好き合うということ。
僕にとっては考えもしない人となりの人。
「言いたいことだけを言って、主張をとにかくする人間、でも人には興味をもっている人」なんかを見もした。
遼子ちゃんという人が、他の女子メンバー2人に「どうしてそうなの?言ってくれなきゃ伝わらないよ」と問われる場面があった。
それでも答えられない遼子。
大変なんだ。
そんなことをされると、凄く凄く、自分が悪い人間に思えてくる。
しかも、2体1という場面になる。責められている気分になる。
それはとても辛いと思った。
ましてや、これは共同生活であるし。このように、僕のように、視聴者の目に留まる、オンエアされる。
何重という苦しみなんだ。
そんなの、考えただけで吐き気がしそうだ。
ダレかが悲しんだり苦しんだりしたとき、必要なことって、
「あなたの為だから、こうした方がいいよ?こうしなさい?」
と、言うことだけが全てなのかな。
嫌な話、僕は、望んでもいないのに何かを言われることが、心底イヤだ。
「お前に何が分かる。お前なんかに言われたくない、お前はそんなに完璧人間なのか」って。今まで、そういう場面があったら言葉を濁してきたけど、その時の僕の心中は、そんなだ。
だから僕は、僕がこんなだから、苦しい思いをしている人に、何も言いたくない。
誰かの気持ちは、その誰かのものでしかない。
だから、その気持ちに、最終的に向き合えるのは、そして向き合って動けるのは、本人しかいない。
そういう人がいたら、その人が楽になることを願う。
苦しんだり、悲しんだり、そういう気持ちを味わったことも内包できて、それで笑えるようになることを。
気持ちというものは、一人のものでしかない。
でも、心底からの気持ちは、あふれ出るくらいのエネルギーを持つことがある。
そうして溢れたときに、その気持ちは誰かに伝播する。だから笑い合える。悲しむという気持ちを共有できる。
でも、自覚や確信のもてないときのそれは、その気持ちが何であるか、わかろうとするのに時間がかかる。だから、そんなときに、自分以外から何か言われるのは、ノイズが混じって仕方がない。
悲しみ、苦しむ人がいたとしたら。
僕は、当人が悲しみと苦しみに、心底向き合えるよう、手助けは全力でしたいと思った。
もし、そうして、当人から声をかけられることがあれば、そのときは心底からの想いを以て応じようと思った。
が、これには例外がある。
①物理的な苦しみ...要するにケガのとき。これは文字通りの応急処置だ。こればかりはしのごの言える状況じゃない。
②自殺未遂...包丁を隠すとか。薬の多量服用をとっさに無理矢理とめるとか。
...何を書いているのだろうな。
そして、テラスハウス上で「わだかまりを解く」、「相互開示を行う」ことのコミュニケーション方法が主に対面での口頭のやりとりでしかなされないことも大変だと思った。
各々が打ち解けたり、言い合ったり、「ラクになる」方法って色々ある。
自分が近いと感じたからか、番組上では遼子にかなり感情移入をしてしまった。
そして後は、本音で語り合うことだけがコミュニケーションなのかな、仲良くなることなのかな、とも思った。
打ち解けるというか、言いたいことを言い合えるというのは、確かに良いけれど。
思っていることすべてを言い合えなかったって、互いを大事に思うことはできる。
笑い合うことだってできる。
ムリに歩み寄ろうとする必要もないんでないかと思った。
自分でいうのも何だけど、僕はおそらく、「繊細な人間」という部類なんだろうな。
の割に、例えば部屋で少し汚れた部分はそのままにしてしまうことがあったり、会社で、たまに引き出しをほんの少し空けっぱで出て行ってしまい、それを他の人がしまったり、外出するときに何か持ち出し忘れてしまっていたり。
会社じゃそれっぽく振る舞ってばかりいるけど、ほんとは全然仕事のことなんか大事に思っていなかったりする。気持ちが上の空にも関わらず、声だけはいっちょ前に出てしまったりする。
繊細で自分勝手?
自分はどうだとか、考えるのはよそう。
自分で自分のことなんか、分かるわけないよな...。