はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

イデオン劇場版 発動篇の感想

<発動篇>

 

カルト的というかなんというか。

作品のもつエネルギーがとてつもなく高い。

言葉で感想を言い表せないこの感じ。

 

TV版最終話のイデ発動シーン後は、本当はこのことを描きたかったんだな、というのがひしひし伝わってきた。

 

ドバ総司令やハルルが胸中を明かすシーンは、

本当にそれら登場人物が人間的でありすぎる。

ハルルはカララと自分のことを「兄弟」と称し、ドバもハルルに「女として育てた覚えはない」と言い放つ。

ハルルは自分が男である感覚を持ちつつも、女性としての人生の愉しみを味わえないことに深く悲しむ。

バッフクラン側の面々の焦り、絶望、憎しみ、といった負の感情、それでも生きることに必死な、生きる力を感じさせる描写が非常に魅力的だった。

「敵キャラクター」として配置されているのではなく、「主人公側と敵対する位置づけにいる、様々な業を背負った者たち」とでも言うべきだろうか…。

 

ともかく、終盤の戦闘の盛り上がりが異常。

登場キャラクターは敵味方問わずドンドン散っていく、どちらも容赦なく敵を殺す。

互いに故郷を失い、帰る場所を失った者同士。

 

登場人物の皆誰も彼もが「後に引けない」状況。逃げ場所はない。逃げても流れ弾で死ぬか、放浪し尽き果てて倒れるか。

となれば、戦うしかない。敵を皆殺して、自分たちが生き延びなければならない。

発動篇の映像では、登場人物の死が克明に描写される。

顔面に数発も叩き込まれ絶命するカララ。

艦内での白兵戦の最中、よそ見をした隙に敵の弾に頭を吹き飛ばされるアーシュラ。

敵を迎え撃つべく待ち構えていたが、無念にもその場で討たれて即死するカーシャ。彼女は死に際の表情も、何を考えていたのかも描写されない。

ただ、撃たれた後に死に、置物のように動かなくなるという事実だけが映像中では描写されるだけ。

 

これら全てが、イデの導きの元に起こりうる、結果のもとに帰結していく事象なのか。

 

コスモもドバも、イデが何を企んでいるか、同じことに気が付く。

「自分たちのような憎しみ合う存在全てを消し、赤ん坊のようなまだ何も知らない純粋な存在のみを生き延びさせ、次の世代をつくることで、イデ自身が発する善き想いを持つ知的生命体群を育てる」

同じことに気づきはするが、その真理のような答えにたどり着いた二人の結論は、

だからといって自分たちはイデに踊らされはしない、自分の業として、敵は倒さねばならない、とした。

両者とも、もはや引けない状態になっている。

 

このシーンは悲しい。互いに対話もした。想いを分かち合いもした。
想いを同じくしているのに、立場が違うだけで、全く混じることのない互いへの殺意として昇華されてしまっているからだ。

かといってこの状況では、そうではないもっと良い状況をつくるための手立てはもはや考えられないともみえる…。

 

そして、それら相容れない思いの行き着く先が、結局はイデの力によってもたらされる転生(?)だった。

つまり、ラストシーンの皆が流星のようになって、メシアの導きのもとに宇宙を駆け抜けていくシーン。

 

ラストシーンはどう解釈していいのか分からなかったし、自分がどんな表情をしてあのシーンを観ていたのか、つい先ほどのことだったのに思い出せない。

ただ、あのシーンでは、皆は憑き物が落ちたかのように、皆心から笑うような晴れやかな表情をして、そして敵味方という立場関係なく、気さくに声をかけあうような暖かい関係になってだった。

 

皆そうしていてくれれば、自分は満足だよ、というイデのメッセージだったんだろうか。

 

それにしてもこのシーン、ファーストガンダムララァの散り際にアムロが見たニュータイプの感応イメージ(島の先にララァが見えて、その後に荒波が押し寄せる映像)と似ていた。

というかこっちは実写だったけどw

 

富野監督にとって、大きな荒波は「命の始まりと終わり」を表現する一パーツなのかもしれない。

 

そして、この一部に実写映像を織り交ぜる手法や、皆が散った後にとても晴れやかな表情を見せ、先へ進むという表現は、

劇エヴァの終盤に似ている。あっちは皆がLCLに溶けていく直前に気づく感じだったけど。

この作品のもつ訴求力の高さを思い知らされた。

 

とにかく、観た人には「二度と忘れられない内容のアニメ」だろう。少なくとも僕はそうだ。