はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

どうして、僕らは働くのか?

今までの面接で、こう聞かれたことは二度ある。

 

最初の面接では、要約すると「生きるため」と答えた。

 

そのとき、担当官からは「それでも全然いい。俺は、マザーテレサの『人は、誰かに必要とされるために働いている』という言葉を聞いて以来、それが働く意味だと考えている。そして、それから40年ほど経った今、この言葉は正しいと確信を抱きつつある」と言われた。

 

なるほど、と思った。

今僕の目の前にいる人は、そのような哲学を抱いて生きているのだと思った。

そして、自分と相手には、どこか根本的に違う価値観の「何か」があることを、直感的に感じ取った。

 

僕の価値観。自分がいて、自分が生きることは、働くことは、全て他人ありきなのか?

それは違うと思う。僕の人生には、確かに他人がいる。

しかし、人生全てを他人のために捧げようと思えるほどの奉仕精神を、僕は正直持ち合わせちゃいない。

そうしようとしても、そこまで向き合うことに逃げて、しかしそのことに後悔して、今までを生きてきた。

 

違う、こういうことは、働くとはどんなこと?とは無関係な理屈のはずだ。

 

 

  そして、いつぞやの面接。またも聞かれた。

「あなたは、何のために働きますか?」

 

このとき、数秒、いや数分だったか。深く考え込んだ。

以前の時以来、このことに関して考えはまとまらなかった。

 

面接で聞かれて、受け答えをするという名目のためなら、「誰かに必要とされるために〜」の話を使おうと思った。でも、それは全く僕の考えることじゃない。

だから、

「…申し訳ありません、正直、何のために働くかは、自分の中では答えが出ていません。月並みですが、『生きるために働く』程度のことしか思い浮かびません。」

このように答えたと思う。

 

すると向こうの人は、

「そうですか、全然それでも良いと思いますよ。こんなことは、これから働く上で見つけていけば良いんです」

と返してくれた。

どこか救われた気がした。

しかし、働くこととはどういうことか、それを考えることから逃げることを由とするためにそう思った訳じゃない。

 

自分の、分からないという感情が認められたような気がしたからだ。

そして、このとき、この問答はサラッと流れた。

そういうどこか淡白な、しかし押し付けでない向こうの方の質を、なんとなく僕は好ましく思った。

 

このとき面接したところから内定を頂いたのだ。

やはり、ここに行く、と返事を出したいなぁ、と思う…。

 

さて、再び本題。

 

なぜ働くのか、ということに関しては…

「自分が生きた証を残すため」

なんとなくこう思う。

僕は、せめて働く以上、そこでこんな業績を叩き出したとか、こんなヤツがいた、だとか、そこでの「語り草」になりたいと願う。それがどんな職場であろうとも。

もちろん、イイ意味での語り草だ。

 

結局のところ、僕の根底にあるのは自己顕示欲なのだと思う。

ポケモンをやり直して、結果を残してやるぞ、と思うこと、絵を描くのもそうだ、評価されて、コイツは良い絵を描くと思われたい、そういう思いだ。うだつは上がっていないが…