デグーがいってしまった
我が家で飼っているいきもの。
...と、コオイムシの生き餌となるメダカたち。
そのうちの、デグーの一匹が、昨日の夜にいってしまった。
方やキキ、方やララ、と名付けていた。両方ともメスだ。
だめになっちゃったのは、キキの方。
飼い始めたのは2013年の6月ごろ。双子の姉妹として生まれてきたようだ。
キキはララよりも周囲の物音なんかに敏感で、身体能力が高かった。
キキはせっかち、ララはおっとりな感じ。
家の中では、ケージの中から出してよくリビングで遊ばせていた。
周囲を僕が歩くと、よくそれについてきていた。
かといって、振り返って捕まえようとすると、すぐに逃げる。
デグーという、捕食されるものとしての性ゆえか、自分が捕まることには凄く敏感だ。
そんな風にして、家ではよくこの子たちと遊んでいた。
...あまりなついてはいなかった気がする。慣れてはいただろうけど。
で、具体的にどのタイミングだったかは定かではないのだけど。
おそらく、昨年の4月ごろ。
キキの歩き方がおかしくなっていた。
おそらく、骨折をしたのだと思う。いったいいつなのかは分からない。
左の後ろ足の動きが明らかにおかしく、常に体制をよろけさせて、まるで歩くたびに転ぶかのような進み方をするのだ。
直進することはかなわず、だんだんと左にそれていくように弧を描くような進み方しか出来なくなっていた。
見るに痛々しい。
母が、周囲の動物病院のいたるところに電話をかけたが、どこも診てくれないか、たらい回しにされて終わるような口ぶりで終わる様だ。
解決策として示されていたのは、患部の断脚。つまり、3本肢になるということだ。
それは可哀想だと思った、だから、この家庭では、このままキキの様子を見守ることにした。
もしかしたら、治るかもしれないと期待を込めつつ。
それからというもの、治るどころか、日に日にキキが衰弱していくのが良くわかった。
あげたごはんは、食べているのか食べていないのか分からない始末。
いや、だんだんとやせ細っていたから、食欲がなくなっていったのだと思う。
加えて、自力じゃうまく動けなかった。
だから、ごはん皿からエサを散らばらせてこぼし、あまり食べられないなんて光景もよくあった。
デグーといえば、ジャンプ力に優れている。だから、自分の身長の3倍程度の高さのものなんかは、軽々と飛び乗ることができる。
キキは、骨折したと思われる当初は、(おそらく無理をして)それができていた。
でもいつしか、這いずるような歩き方しかできなくなったから、そんなことはできなくなっていた。
おとといの夜、寝る間際、僕はキキを自分のお腹の上にのせて寝た。
これが今わの際だと思うと、気が気で仕方がないからだ。昨日の夜もそうした。
本来なら、人に触れられてじっとしているなんてことは、うちのデグーにとっちゃあり得ない。
だからすぐに逃げるのだけど、それすらかなわないほど衰弱していた。
そして、昨日の夜。僕は本を読みながらキキと一緒にいた。
23時30分頃。「キュイ、キュイ」と小さく鳴くキキの声が聞こえた。
キキは体をうねらせたり、もがくように前足や後ろ足をゆっくりと、しかし懸命に動かしたりしていた。
僕はそんなキキの様子をじっと見守っていた。
前足、後ろ足、しっぽの先、と動かしていき、しっぽをピンと張らせた後、
何かが抜けたようにしっぽが垂れ下がった。
このときにキキは力尽きた。
そうだという確信がなかったから、おでこを撫でたり、前足...手先を軽く握ったりしたのだけど、全くリアクションがなかったし、どこか「硬さ」を感じた。
そこでキキはもうだめになったのだと知った。
僕は、ふと「命は等価値ではない」と思うことがある。
デグーという生きものは、げっ歯類にありがちな「産めよ増やせよ」の原理に則った、生態をもっている。
多数が死んだとしても、生殖に必要な個体数さえいれば、その種を存続させられる。
あらかじめ多数の死を前提としているため、生産の時点でその数は多い。
そのようなシステムに組み込まれた、一個体に過ぎないデグーは、骨折をしても自己修復機能など与えられはしなかった。身体の強度にも限界があるのだろうか。それを治す環境も用意されなかった。
あとは骨折を機に弱り、死へと近づいていくだけだ。
今回の出来事を通じて、命の価値の差を改めて感じた。
このような価値観を抱く僕という人間にも、ひどく傲慢さを感じ、自らを憎悪したい気にもなる。
生きものを飼う人間は責任を負う必要があるし、ある種僕がキキを殺したような思いはある。
自分がもっと気を配っていればキキは長生きできたかもしれない。
ペットを飼うということは、別れがつらいから、今後飼うにあたっては一考すべきだと思った...。