レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

現代的な形で「イズム」に踏み入れたっぽい人たち

ジモティーを通じてのこと。

「他己分析をしませんか?」という名目で、メンバー募集を乞う投稿があった。

自分にとって、プラスとなる人間関係を、そして知識、経験となる関係を作りたいと思っていた僕は、その投稿を目にし、参加する旨のメッセージを送った。

 

「他己分析」といえば、なんだか就活を思い出すワードだなと思った。

しかしこちらは、「自己分析」ならぬ「他己分析」。

他者から見た自分とは、どんななのだろう、そしてその分析手法を自分も知ることができれば、他者とのコミュニケーションにおけるなんらかの糧となろう。

そして、単に「社会心理学的命題」であると思い、そのような興味もあり、僕は行動を決意した。

あとは、いずれ来るであろう転職活動において、自己を表現するときにどのような言葉を以ってアピールすればよいか。それにも役立てるだろうという思いもあった。

 

 

で、メッセージのやり取りにいたった。

向こうからはすんなりと承諾の返事がくる。

いくつかのやり取りのあと、その約1週間後に市内某所のカフェにてそれが行われることとなった。

最初は、1対1での対話かと思ったが、向こうはどうやら「お友達」を連れてくるとのことだった。まあいいかと思い、僕は二つ返事で承諾し、いざ落ち合うこととなった。

 

ちなみに、お相手は36歳だったかの女性。

他愛のない会話を交わした後、アンケート用紙のような形の、質問事項をいくつも書いた紙を渡され、僕はそれに回答をする。

 

それによって得た僕の判定。それは

「悩みがちでストレスをため込みやすいが、感受性が豊かで人の心の共感性が高い。本質的には素直で誠実、裏表のない、優しい人物」というような評を受けた。

女性曰く、「ナオさんはコツコツタイプ。何事に対しても常に思索をしていて、探求をする人間」

なのだそうだ。

 

それを言われたとき、そりゃ嬉しかった。

しかし、何なんだろうな。当時の自分は、そして今もだが、それを聞き、知った所で僕はどうしたかったのだろう。

自分が他者からそう思われていると知りました。

アレ、だから何だ?だから何を得たかったのだ?そう思い、僕は少し虚しくなった。

 

だが、悪い気はしないことも事実。

その葛藤で、僕は心の不整合を抱いた。

 

その一週間後。

今度はこの時の面子に、更にとある「先生」も加わって、同じカフェで話をすることになった。

その先生もやはり、僕のことについてアンケート用紙を用いた分析を行い、

次に自身の研究分野の概論の説明を行った。

 

内容は、いつぞやの日記にも書いたのだが、「ユング心理学」や「夢分析」、「ヨガ」といった類のものだ。

単純な知的好奇心から、僕はそれを興味深く聞きはした。

しかし、元をたどれば、僕は社会心理学的観点の話を聞きたいと、その分野の追求をしたいと考えていたのだ。

そこからすれば、科学の範疇とはまた一つロジックの方向性が異なる分野の話を聞くこととなり、「アレ?」という違和感をおぼえた。

 

その翌週も、似たような話を聞く。

前回の話を深堀した内容だ。

 

そして、僕は、この「先生」と、「女性2人」の関係は、いったい何なのだろう、と不思議に思ったのだった。

どうやら、おそらく教授と助手のような関係だ。

僕が直接「先生」と都合を合わせる連絡はとらない。

あくまで、先の女性を通じて都合をつけてもらっている。なんだか変わった話だ。

この時、講義の終わり際に「違う先生を紹介しますね」と言われた。

 

そして、翌週。

今度は別の某カフェで、相も変わらず女性2人、「違う先生」、僕の4人で話を聞いた。

この「違う先生」のキャラクターがまた、強烈な個性を放っていた。

 

とにかく、自身のロジックを、1から10まで徹底的に作っている人であるということ。

その自らの論理の世界に、こちらを引き込む力を持っているということ。

とにかく早口で、そして情報量は多く、それでいて作り上げたロジックを使ってこちらの疑問の余地を残さない喋りを展開する。

内容はともかく、話し方はこのようであった。

 

では、内容の方である。

まず、僕らが慣れ親しむ「科学」の世界と、彼らが追及する「真理」の世界がある、という前提から話は始まった。

そして、「真理」の世界は、「科学」よりも上位のものであるという理屈。

この世のあらゆる刹那的な苦楽全てから解き放たれ、ほんの短い一生の中に、その真理を見出す、もしくは近づくことで、幸福に死ねる、というのが目標だ。

「真理」の世界の観点からは、宇宙開闢の遥か過去から未来、そして宇宙規模のデータベースから情報を得るに至っているので、「科学」よりも遥か多くの気づきを既に得ている。

途方もない時の流れの中に、人間そのものは数十年という寿命しか持たないから、そのような観方からすれば、追求したところで終わりが見えない、進捗の進まない科学を突き詰めるよりも、真理を探究して、幸福に死ねるようにしよう、というものだ。

 

大方このようなテーマの下で、話は進んだ。

そこから、座禅の理屈、幽体離脱に至るまでのプロセス云々。様々な話を聞いた。

 

話自体は、とても強固な論理で固められていて、それらの世界が「ある」という大前提を下にするのなら、なるほど理にかなっているのはないかとも思わされた。

 

しかし、このような話は「否定」の余地を許さないのだ。

これが究極的な理屈なのだが、この理論においての「否定」は、人間にとって煩悩の元となる負のエネルギーであるとされる。

つまり、理論について「否定的な感情」からもたらされる疑問などを持つことになれば、「それだと次のステップにはいけないよ」ということとなる。

 

なあ、これって詐欺の理屈なんじゃないか、と思った。

つまり、一度向こうの土俵に入れば、その時点でレスバトルで勝利がないのだ。

(というより僕には思いつかなかった)

 

このような「完璧性」だけをただ叩きつけられた理論に、僕は圧倒され、恐れもした。

だから、距離を置きたくなった。

 

そのような自分の感情からすれば、どうして席を同じくする女性2人が、先生の下にいるのかは、うっすらとわかった。それは単純なこと。

 

彼女たちは、その土俵の上に足を踏み入れたからだ。

 

おそらく彼女たちは、否定の余地のない理論の世界に入り込むことで、同じプロセスを経て、同じ幸せを得ることを夢見ている。

しかしそれは、科学とは相反する分野の出来事。

「科学」と一緒くたにいっても、とても多岐なことだろう。

可視光で観測可能な、物理的なあらゆる事象の「原因」と「結果」全てが科学となるのだから。

僕が怖いのは、そういうものを追求するだけでも、この世界は十分だし、分からなくたって「僕らができなければ、次の世代がやってくれます」という希望にあてつけるもできそうなものなのだが、そういう考えでなく、それらすべては「既に解明されているのにあーだこーだやってどうするの?」と、一緒くたにある種「唾棄」しているように思えてならないということだ。

それは怖い。なぜなら、考え方の根本にそれがあるかないかによって、人同士を切り分ける考えにつながるのではないかということ。

そして、例えばその理論の探求者たちは、おそらく地球全体から見ればマイノリティであろうとされる。(ちょっと論理の飛躍があるけど、割愛)

とすれば、マイノリティ同士でのコミュニティでしか「切り分けない」つながりが埋まれないであろうこと。

 

だから、彼らの見地からすれば僕の立ち位置は「俗なもの」なのかもしれないと思った。彼らから距離をおこうと思ったからだ。

 

追求すれば幸せに死ねるという可能性を提示したのに、

目先の知識や現象の理解を追求する科学に陥るのか、ということになる。

しかしそれで十分だ。

 

ハッキリ言おう。「俗である」と自分で言い切ったのだから、言わせてもらうと。

 

彼らの理屈は、やはり正直、よくわからない!!!!!!

 

そこまで頭が回らないのだ、僕は。

だから、今の知的好奇心に赴いて追及することが健全だと改めて思った、この何回かの逢瀬だった。

 

今後も会えれば会って講義を聞きましょう、というような流れになったが、

僕はこれにて断ることとした。

 

地味に、一回につき500円かかり、交通費もかかり、カフェでコーヒーを飲むお金もかかる。

この一度行くだけで1500円はかかっている。

それに見合う刺激と経験ではあったかもしれないが、

今後も同じ1500円×n回で満単位というおカネが跳ぶのかも...と思うと、

そのような「受動的おカネの使い方」よりも、例えば単純に本を買うだとか、そもそも未来への貯金としてためておくだとかしておいた方がマシかな。

さらに、僕の考えの根本がますます世間とズレていく可能性さえあったかもしれない。

この選択は正しかったのか分からないが、そうする自分を信じるしかない。

 

 

タイトルの「現代的な形で~」であるが、

要するに、SNSを通じて草の根的に、しかし着実に囲んでいくことで自らのカルト的とというか主義のフォロワーになってもらい、それを増やすこと、それを「現代的な形」と表現している。