同世代との邂逅
たまたまであるが。
集金で、自分と同じくらいの歳の女性のもとを訪ねた。
月3000円、年間で36000円はするこの高額商品を、所得は分からないが、それでも限られたパイの中で読んでくれている。
新聞を読んでいる人間の実像、というと大げさだが、主に読むのは、ほとんど高齢者だ。
しかしながら、言わずもがな新聞には、本人の自助努力さえ少しでもあればしっかりとした知育効果がある。
だからこそ、若い世代にこそ読めという理屈だ。
(とはいえ、大人のその押し付けにも似た要求などは、全く論理的でないと辟易するばかりだが)
とにもかくにも、今日会ったそのお客さんは、自分の意思で購読すると決めているのである。
とても好いことと思えた。
どのような読み方をするのか聞いてみると、広告欄を主に眺めるのだそうだ。
なるほど、そんな読み方があるのか、と驚かされた。
僕は、政治欄などは個人の暑苦しいバイアスが大いにかかっていて、あまり読む気はせず、結果として社会問題とか、文化的な話だとか、科学分野、現代の若者の話題だとか、そういうものくらいしか自分では読んでいなかった。
しかし、そもそも、「どの記事を読むか」でなく、「読むスタイル」そのものが違うという事実を突きつけられ、とても新鮮な刺激を受けた。
新聞は、現代においてもはやモダンとは言えない代物ではあると思う。
しかし、毎日何万字とぎっちりと情報を詰め込んだ塊をぶつけられるのなら、ユーザーもその受容の仕方が数あるということなのかと思わされた。
◆
会社に内定者が来ていた。
もう春からなので、物件を決めたり何なり、という段階で、今日も研修に来ていた。
一年前の自分を、衝動的に重ねた。
そして、自然と先輩風に振る舞ってしまう自分である。これは少し、滑稽かもしれない。
ああ、早く現場で一緒に仕事がしたい。
僕は、同志が欲しい。