はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ナニかのフォロワーであることが全てだという人

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(Amazonで購入。「本の虫」にゃ遠いが!」)

 

半ば、自己嫌悪なのかもしれない。

 

先日の「ねほりんぱほりん」を観て、思ったことだ。

内容は、「羽生結弦に人生を救われた人」という体で、彼によって何らかの影響を受け、自身に良い方向で進路を決めるに至る、というものだ。

 

その理屈は分かる。

何かを熱狂的に愛し、自身の軸とすることで、愛したそれと自身を照らし合わせ、自己像をそれに近づけようともなるし、活動の原動力ともなる。その過程で得たものが、長い人生において他分野に応用の効くような、知識や経験であった、なんてこともあるだろう。

 

しかし、究極的には、フォロワーとしての生き方しかできないのだ。

何が言いたいかというと、熱狂的な愛、盲信、溺愛などというのは、「肯定と否定全てを内包し、受容するような愛」とは少し違うのではないかということだ。

 

だから僕は、ガンダムを否定して見せながら、愛して止まず、抜け出せない自身に葛藤もする。

そんな自分に「もっと楽になれば」と声をかける人もいるが、でも悩む。

 

しかし、映像の彼女らは、「羽生結弦」という一つの共通項を基に、ここまで繋がりを見せている。

 

彼女らは、ある種羽生結弦によって救われているというか、「楽になって」いる。

その状態が、誰かとつながる行動さえ可能にさせている。

 

ある種、悔しかったのだ。

僕は、自身が俗であることをどこか自覚し、いわば自分で自分に杭を打つように、自ら自身の想いに抑圧させて生きるようなことをしていたから、そうしない選択をする彼女らを妬んでいる。結局、そのような感情ありきでの論理展開にしか過ぎないのかもしれない。

 

それでもやはり言いたいのは、宇宙開闢の時から、永遠の熱や存続などというものは観測されていないのだから、そこから下って考えるに、全面的な肯定などというものはいつしか風化し、かつて好きだった自分と冷めた自分のギャップに苦しむだろうことは想像ができようと思う。

であれば、否定と肯定、終わりと始まりを呑み込んだうえでの受容こそが、数十年という人生において、ある種楽に、幸せに思える愛し方にも思える、というのが僕の理屈だ。

 

しかしこれは、刹那的に「一種にして煮えたぎる愛」ではなく、「ふつふつと湧き出るような愛」である。だからこそ、瞬時にして大きな熱と、愛を見せる彼女らに対し、焦り、嫉妬し、僻みの念を抱いてしまった。

 

…というのもあるし、最近、似たような女性と出会ったこともある。

本当は、「それが好きなあなたのことは分かった。でも、それよりもあなた自身のことを知りたい」という欲求もあるのだ。

ある物事Aがあったとして、それに対し、「あの人なら〜〜」でなく、「自分なら〜〜」という言葉を聞きたいと思うのだ。