レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

岡田麿里さん、好き

自分の感情や行動について、1から100まで喋りまくってくれる人が、本当に好きだ。

 

岡田麿里さんももれなくそういう方で、しかもその質が職業と密接に関わっているというのもなんだかステキな話である。

 

純の感情を出したくなくても出してしまう、みたいのは、おそらく職人気質なんだろうな。

 

個人的に、岡田麿里さんと富野監督はやはりどこか似ている。

根底にあるのが、「キャラクターの描き方」を第一優先としていること。

ここが非常に似ている。

 

そして、受け持った作品の多さである。

下積み時代から監督作品(脚本作品)、それらフィルモグラフィの多さ。

 

これは個人的な考えだが、量が多ければ質は伴わない、とかそんなことは作品づくりにも実は全くそんなことはないと思っている。

むしろ逆で、筋肉だとかと同じく、作れば作るほど(使えば使うほど)、その質は洗練されていく。

 

洗練とはいえ、絶対的な作品の質のことをいうというよりは、演出面の統制だとか、氏個人の技量以上に全体的バランス、といった具合の質だが。

 

というのはともかく、量をこなせるというのは、結果「燃える思いの暑さ」があるからで、つまり量が多いというのは、それだけ熱い想いがあるということだ。

 

両者はその点で非常に似ている。

富野監督作品も岡田麿里さんの脚本作品も、正直とうてい追いきれないほどだ。そして、これから網羅するつもりも正直ない。

 

生き方も違えば生きる年代も違う、更に性別も違う。これだけ相容れないようなお二方で、作品性もたしかに違う。

でも、本当にミクロな、「生の人間の、永遠に言語化できない『人間像』」をドラマに落とし込む姿勢が似ている。

 

かつて、富野監督は機動戦士ガンダムという作品を提示した。

 

この作品はシリーズ化し、時代の文脈に即して再解釈され、ことあるごとに新シリーズとして地上波で幾度となく放映されてきた。

 

今から4年前、その一シリーズである「鉄血のオルフェンズ」が放映された。

ガンダムの作品描写の一特徴ともいえる、「戦場における人間同士のやりとり」を描くため、人間ドラマ描写に定評のある岡田麿里氏が、同作品のシナリオ、脚本担当として起用された。

 

富野由悠季監督は、自作について語るとき、事あるごとに言うのだ。「人間ドラマを、アニメでも描きたい(描きたかった)」と。

その想いを原点として始動した機動戦士ガンダムだが、現代においてもその始点は忘れられることがなかった。

 

だからこそ、「人を描ける」岡田麿里氏を起用したといえよう。

 

「人を描く」。この一点で、富野監督と岡田麿里さんは、ガンダムという作品を通じて繋がった。

 

 

岡田麿里さんには、正直恋をしている。

この方に子がいようが、結婚をしていようが、関係がなく、とにかくその純の感情をそのまま持ち続け、そのまま大きくさせる、これは天才的ともいえる精神性だろうが、このような心持ちがたまらなく愛おしく、尊敬している。

 

これは多分美化だ。だから、恋をしている。

 

 

どうでもいいけど、誰かが自分のナニかを語るときに中学時代とか小学校高学年くらいのときに感銘を受けたやつについての話が出ない人はちょっと疑っちゃう。