はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

「わたし、定時で帰ります」で無性に泣いた

尺の決められているドラマだから、物事が起きて問題の表出化と解決なんかはテンポ良く登場人物たちも有能かつある程度わかりやすく事象を描写しているというのは分かる。

6話目で、

「女性という立場を利用して異性クライアントとの同調を図り仕事の円滑化に繋がる」というポリシーを持った人物が描かれる。

 

しかし、最終的には男側が増長し、セクハラ問題に発展して、彼女は精神的に疲弊してしまうこととなった。

 

この自体の発覚も、彼女自身の告白などによるものではなく、事情に詳しい関係者だとか、近縁者たちの告発によってだ。

 

そのような描写をみて、僕は泣いた。

無償に泣けた。

 

正直なところ、この女性への同情というものではなく、このような出来事が起きてしまう社会というか、人が人の心を踏みにじることへの躊躇がなくなるような精神性のあり方が実在してしまうことへの絶望…つまり「想像力の欠如」を痛烈に感じてしまい、そして自身にも身近にフラッシュバックするような節があり、泣いた。

 

でも、根本的に僕が思うことは一つだ。

「どうして、だれかの心を侵してしまうんだろう?」

これだけだ。このことが、とても苦しい。

 

社会参画を成すプレイヤーならば、人とのコミュニケーションを、時として共同体の一員としても行動せざるを得ない場面が多々ある。

そうはいっても、人間は人間以上のものでは決してない。だから、その個人がもつキャラクター性は、良くも悪くも、どこかしら出てしまう。

 

その軋轢のもとで、「仕方がなく」動いてしまうことがあると、今度は個人間の心の中で不一致が生じてしまうのだろう。

根本的な思いだ。「あの人は、嫌いだ」とか、「あの人意味わからないや」とか。

 

だから、真意を伝える話し方というか…結局のところ、互いが、プレイヤーとしての自覚と誇りを以って接することがなければ、健全なコミュニケーション足りえないのかもしれない。

 

どうにも抽象的な物言いだが。

 

 

とにかく、「人の心を侵すこと」はなぜ起きてしまうのかというと、

執念や野心といった、我欲ありき、社会的成功欲ありきのもののための行動が、人間性ではなく、それによって得た「立場」や「権力」を借りての行動になってしまい、それを自らの力であると錯覚して増長する。

その余波は結局他者の人間性の無視や、結局自身の個人性を見失うことにも通じてしまうというものだ。長期的には。

 

だから、そうなってしまわないためには、僕は「純な愛」で何かをスキになることが大切だと思っている。

つまり、自分の取り巻きの社会的要因は全て取り払って、「私は、どんな存在か。何が、何をしている時が心底(絶対的に)好きで、生きているのか」を考えたときに、パッと浮かんでくるもの。

それを本当に大事にしないで生きてしまうと、多分妄執と隣り合わせの存在になってしまう気がする。

 

逆に、真に好きなもののことを忘れず、そのことを心血を注いでいれば、「愛の注ぎ方」がどんなものであるかはわかる気がする。

この「愛の注ぎ方」を理解することが大切で、要するにものの愛し方を知っていれば、人の愛し方、尊重の仕方も分かるのではないか…という主張だ。

 

 

 

 

わかってる。ロマンチストすぎる理屈だな。

でも、こんなことを思ってしまう。

 

生命は、前提として人が人を愛することから生まれたものであると思っている。

だから、根本的に、何かを愛する、愛したという感覚は、産まれた時から備わっているはずだ。

その感覚に素直になって、まずは楽になったみれば、奥底の愛ってなんだったかを思い出せるとは思うのだ。