レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

リヴァイアスの挿入歌 「棘」

宇宙(そら)を 夢見ていたあの頃

今 心 壊れたかけら 

何か こぼれ落ちてく

 

いつからだろう 心は凍えていた 震えていた

どこからだろう 瞳には何も映らない

 

悲しみさえ さまよった あの夜に...

 

 

 

鳥は どこの空を 飛んでる?

あの風は ささやかないのだろう 

二度と ここには___

 

目覚めてみれば 心無い言葉たち 傷ついてく

眠っていれば 焦がれる炎 焼き尽くして

 

優しさにも 気づかない ふりをして...

 

 

ひとりぼっちで 蒼い夜の中にも 目覚めている

心の中で 育てた棘が 傷みの中

失われた 思い出の 血を流す...

 

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僕は、この曲をiPhoneに入れている。

音楽プレーヤーを携帯し始めたのが中学二年生くらいの頃。

同じ頃、鬱アニメとして有名であるということで無限のリヴァイアスを視聴した。

結果、とてつもなくハマった。

初週では、随所に流れるこの挿入歌である「棘」のことはあまり意識せずであったが、

中三になって再び視聴したとき、こんないい挿入歌が流れていたのか、と

再び衝撃を受けたことを覚えている。

 

以来、音楽プレーヤーにはこの曲を入れ、当時からヘビロテして聴いている。

その音楽プレーヤーがダメになり、次のプレーヤー、そしてiPhoneで音楽を聴くようになってからも、いまだにこの曲は、週に一度、数日に一度は聴き続けている。

 

無限のリヴァイアス自体、一部に人気、というようなアニメであり、決して番人向けの内容ではないだろう。

ましてやその挿入歌、というニッチさである。

 

しかし僕は、どうしようもなく退廃的で、一切のテーマ性もメッセージ性も訴えることなく、例えばエンタテイメントとしての在り方をも放棄しているような...

ただ「音楽」、「歌詞」、そのものがそこにあるものとして、

ゆったりと流れていくだけのようなこの曲が大好きであり、愛している。

 

いや、メッセージ自体はあるのかもしれない。

僕は、今までこの曲の歌詞について考えることがなかった。

しかし、こうして文字に描き起こして鑑みるに、歌詞の内容は

「現状認識と過去を振り返ったときにその虚しさに気づきつつも、また移ろうときを静かに過ごす」というようなものだろう。

 

これは、テーマをもつ創作物にあることの多い「現実は辛いが前に進む」ことへのアンチテーゼである。意図せずなってしまっている。

 

しかし、そうであるがゆえにこの曲は「聞いていて辛くない」のだ。

現状の不甲斐ない自身に嘆き、音楽や映画、漫画、小説といったエンタメものに安らぎを求めるとき、僕は「空虚そのもの」であるようなこの曲を聴くことで癒され、落ち着かされている。

 

自身の内面の傷に、染みるように強烈な劇薬を投与するのでなく、

まったくの安全性と無害を以って、ただその傷が「そこにあるもの」としてそっとなぞってくれているような感覚に包まれる。

それは、間違いなく「癒し」「安らぎ」の感覚だろう。

 

しかしながら、それだけを求めていると、僕たちは気の抜けたナニカと化してしまう。

そうはわかりつつも、辛いと言いたい。それでも、その気持ちを表出させて、訴えることは怖い。

「甘えるな!」この一言を突き付けられることが、怖いからだ。

 

だから、「辛い」という気持ちに同調してくれる曲を聴くことで、共感を得ているかのような錯覚に陥り、安心するのだ。

これが、とりあえずの安らぎであり、自慰行為である。

 

僕は、無限のリヴァイアスを忘れられないし、

「棘」も忘れられない。忘れることはないだろう。

感受性が鋭敏である思春期に衝撃を受けたものというのは、忘れることがないからだ。ましてや、自身の嗜好性のベースを作るものがそれとなるからだ。

 

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少し話は逸れるが、「現状認知をしたときの空虚さの感覚」について、

これと同じような想いを味わうものがあるな...と思い出した。

 

涼宮ハルヒの憂鬱」、ハルヒの踏切の独白する例のシーンだ。

(野球ドームので、観戦に行ったときに、その大勢の人間の矮小さを痛感し、自分がその一部でしかない、ただの一人でしかないことへの絶望を感じ取ったというアレ)

 

最近、まとめサイトを巡回していた(悪い癖である)ときに、

「このシーンが自分の人生観のベースになっている」という書き込みを見かけた。

 

 

ハルヒの価値観もだが、これに強い衝撃を受けている人だっているのだな、と僕は強い肯定感と共感を覚えた。

 

 

「棘」もそのようなもので、「翻って何かを考えたときに、ふと『なんでこんななんだろう』と空虚になってしまう感覚」を想起させるものだ。

 

多分だが、僕たちはそれぞれ、ふとしたときに思い出してしまう「痛烈なダウナー性をもつもの」を、自分がふれた創作物からそれぞれ覚えているのではないかと思った。

それが、キャラクターの台詞であったり、音楽であったりするのだ。

 

 

が、大抵の場合、「現状認知をしたときの空虚な感覚」のままでいては、ロクなことがないんだ。

そして、人と人がつくる社会というものは、そういう感覚に終わりを告げるような枠組みを作ってしまっている。

 

それでも、空虚さには浸りたくなる。傷だとか、かさぶただとかをなぞられることは、気持ちの良いことだから。

 

僕はたまに、根本的に人間が黙っていると、心身ともに下降してしまうのはナゼかを考えるときがある。

それは、銀河系の中心にブラックホールがあったり、地球に重力があったりして、

とにかく足場を下へ下へと引っ張る力が、産まれる環境に根本的に備わってしまっているからなのだと思う。

 

引っ張る力があるから、僕らは黙っているとそこに向かってしまう。

そこに向かってしまうことを、例えば「堕落」であるとか、「悪」であるとか言うこともある。

しかして、この宇宙も、僕らのいる星もだが、そういう力も存在することの要素として成り立っていることが分かっている。それは、多くの人たちの観測、科学によってだ。

 

なればこそ、「引っ張る力」も、大事な要素なのだ。「堕落」も、「悪」も。

それだけを欲してしまうから崩壊するのであって、決して不要なものではないということだ。

 

つまりそれは、僕が「棘」という曲と向き合うとき、

これをただ「癒し」の対象物としてだけか、

その後の行動を考えた時のセラピーの対象物としてかと捉えるかによって、その後が変わるということであるだろう。

 

先に、「棘」を聴くことが僕にとっての自慰行為であると書きはした。

 

そこから少し考えると、そういう感覚で聴くときもあるし、考える力があればこそ、そこから一歩進めるときもある。

 

...総括して考えると、「僕にとっての気持ちのいい曲」である。