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うすうす思っていて、実感していることがある。
森羅万象に対して、良い、悪いという価値観は本来ないのだと。
つまり、世の中の事象は、善と悪という二項対立で片付けることができない。
これは、絶望的な事実だ。
何かを悪と決め、断罪することができないのだから。
この絶望的な事実を、僕は自身の考えの中に落とし込めていない。
現実的なシチュエーションで記述する。
他者から、理不尽と、不愉快と思しき指摘等を受けたとする。
これは、一概に、不条理と片付けて良いのか、ということだ。
そのような状況が、どのようなバックボーンから産み出されたのか。
そして、指摘してきた他者は、その状況を声として表出化させた、スポークスマンに過ぎないかもしれないということだ。
ただ、これは解釈論ともいえる。
当人の気持ちでそれを言ったのかもしれない。
そのように言う、風潮があったのかもしれない。
ああ…わからない
僕は、何を言いたいのだろう
僕は、落ち着きたいと願っていて、そうする力をつけるために、その考えを補強してくれそうな本をみつけ、それを読んだ。すがったとも言えるか。
事実、支えられた。
それは、哲学書であったり、ロマンスと暖かみを覚えさせてくれる知識であったり、架空の物語であった。
そして、その感動を、現実世界とのコミットメントを成そうとも考えた。
考え、少し、繋げる努力をした時期も、あったかもしれない。
しかし、今の僕は、もはやただの消費者である。
ただの本読み、ただの物語好き、そんな動物である。
懺悔の気持ちと、虚しい気持ちがある。
整理がつかず、言語化しようのない、衝動というほどでもなく、温度のない溶岩が心の中で流れ出るかのような、心地は良くない感覚に常にとらわれる。
そして、その心の中の流動が、僕に呟かせる言葉がある。「いってしまえ」とか、「死んでしまえ」とか、「壊れてしまえ」とか。
明確な何に対してではない、ただ出てくる言葉だ。
……
僕はまともでない。
「健康な状態で、苦しいという事実を自覚し、苦しんでいる」。