ゼータをほとんど観終えた
Amazonプライムで、中盤あたりから騙し騙し視聴して、先程最終話も観終えた。二週目か三舟目くらいか。
改めてみると………
ものすごくキッッッッッツイ作品であると感じた。
個人的には、視聴後の精神的ダメージが生半可でないということだ。
それは、フィクションの中でも、その作品世界での現実ごととして、「人間というものの可能性の限界」「可能性を示そうとも分かり合えない」ということを徹底的に描くからだ。
カミーユは、時代の動乱の最中において、人間として優れた能力を持っていながらも、傲慢さを見せ、その傲慢さの元に覇権を握らんとする者たちへの「修正」を誓い、その信条に準じて行動をする。
ハマーンやシロッコへ対峙する動機は、エゥーゴの兵士であること以上に、カミーユ個人の価値観から、という部分が大きいだろう。
しかし、そのために動いていても、自体は戦争をしている。だから、身近な者の死が付きまとう。
その死の要因は、「戦闘をしている」といことはもちろんだが、戦闘に参加する個々人の想いの軋轢が、互いを擦れ違わせ、それが殺しあう動機となり、結果として死につながる。
おそらくカミーユは、「戦闘における死」から連なる事象と因果の様々を、体感として全て、まるで自分のことのように感じ取る想像性をも身につけてしまった。
人間に、喜怒哀楽のアンテナの強度のパラメータがあるとすれば、カミーユはその全方向のステータスが、限界を振り切っている…というようなものだ。
人の優しさ、人の悲しさ…生きものは、黙っていると「悲観」の方向へ感情が向いてしまう。
カミーユのイマジネーションは、それら全てに、多大な力を以って向けられてしまったがために、最終的に「悲観」の方向へと傾いてしまった。シロッコの今際の際の悪意が、彼をその方向にさし向ける決定的なトリガーとなった。
…そういや、シロッコも、ニュータイプと称される存在でありながら、自身の最期は、そのときに後悔するとか、認識を改めるということは一切しないんだよな。「カミーユを忌々しく思い、悪あがきとして何かしら報いようとする」ことしか考えない。(「貴様の魂もいっしょに連れて行く」のシーン)
逆説的に、このような精神性こそ、まさに傲慢であると思うし、「理解をする」「共感をする」方向には全くシフトしていないことが突きつけられている。
これもまた、「ニュータイプは相互理解ができる」ことへの確固たる反証材料となってしまっている…。
「出来ることといったら、人殺しだけみたいだな」
ロザミィを撃った後、カミーユは、自身の行いをそう嘆いた。
冗談か本心かも定かではないその言葉が、そのままカミーユ本人の行く先を示してしまった。
「機動戦士Zガンダム」という作品ひとつでは、カミーユは、人殺し以上にはなれなかった。
この作品、個人的に全ガンダムどころかほとんどの創作物の中でもトップクラスにキツイ。
50話もかけて主人公が善き力を身につけようと、自身なりに正しい方向を向いてそれを示そうとするのに、最終的に破滅を迎えるという様をじっくりと如実に描写する。エグすぎるだろ。
それが示唆的だとか、観念的な描写なら、まだ現実感がなくて救われるが、完全な現実描写として「主人公の心の崩壊」が描かれる(カミーユの様子を見たファの描写は、主人公の状態を客観的にどのようなものかを説明している)。
カミーユの状態もそうだし、物語世界の大局部分においてもそうだ。
エゥーゴ、ティターンズ、ジオン残党という三つ巴の戦いは、ジオン以外は壊滅状態に陥り、シャアも撃墜される。趨勢は絶望的であることを示し、フィナーレ。
カタルシスはない。
リアルタイムでこれ視聴していたらと思うと、正直ゾッとする。色々立ち直れないかもしれない。
ゼータは、1stガンダムでアムロたちが見せた宇宙時代の人々のあり方…というコンセプトを完全に殺しにかかってる作品に思える。それも、徹底的に前作否定に近い固い決意を感じる。怖いよ。
でも面白いんだよね〜〜…ゼータ。
架空三国志もののような、シャアとハマーン、シロッコという3大勢力の情勢の移り変わりと勢力図の塗り替わりはピリピリしていて、ドラマとしても政治バトルとしてもなかなか珍しい面白さがある。
更にモビルスーツカンブリア紀とでもいうべきか、奇抜なデザイン群と機構を持つモビルスーツ達。
ビジュアル面の完成度の高さがやっぱり惹きつけられちゃうんだよな。
総合的に考えると、本当にカオスな作品だと思う。