グランベルム 2話 感想
今後が楽しみ!!
- みどころ
→満月の造形描写
時系列は、2話のその日一日が朝から始まり、夕方に終わるという形式。
それに合わせたストーリー展開がなされる。
個人的に面白かったのは、放課後、夕暮れ時からの展開。
教室で居合わせた満月と新月。
「誰に言われてもいないのに、なぜ黒板消しなどするのか」
という問いに、「それ以外にやれることがないから」と答える満月。
そこから、満月の独白が始まる。
他の人には、何かしら才能があり、それが自信となって、日々を謳歌できている(と満月は思っている)。
しかし、自分には何もない。勉強ができる、スポーツができる、ムードメーカーである、...等々、周囲が秀でているものに比べ、何も持ち合わせていないということを新月に告げる。「あなたにだってあるはずです」という慰めの言葉すら遮って。
「隣の芝生は青い」という言葉があるが、満月にとっては、まさにその念に囚われた日々を送っていたのだろうし、それをバネにして日々を努力してきたのだろう(彼女は周囲の者の世話をするということに対して、人より進んで出来ている(家庭の弁当を作る、先の黒板消し等)描写があるのだが、それが本人の長所だと自覚できていない)。
自身が他者より「できている」ことはあるのに、全くそれに気づかず、常に自責の念に囚われつつ日々を送る。
何らかのプレイヤーとなれることにあこがれる彼女が、魔術師たちの戦いの情景を見せられたことに対し、戸惑いと同時に、「自分もそこで何者かになれるかもしれない」という期待を持つ。揺れる気持ちが、「参加する」という方へと振り切ったとき、夕暮れ時の光庭の花々が一斉に咲く。
この叙情的なワンシーンはとてもよい。
そして、魔法と由縁なきものならば、このような状況は創り得ない。
無自覚にそれをする満月。彼女の才覚に可能性を見出したかのように、戸惑いと驚きをみせる新月。
満月の心の動きと、それをビジュアルで表す情景描写のリンクが中々魅力的。
(キャプみると、新月のランドセル浮いててちょっとおもろいな。でもいいシーンだ。)
→新月の「魔法の解釈」
『術によってこの花は美しい花を咲かせた。しかし同時に、本来咲くべき時に花をつけることは出来なくなってしまった。運命を狂わされたのです』
『魔力はその比ではありません。その強さゆえに、本来進むべき道を狂わせ、本来あってはならない事を可能にし、本来存在しないことすらあったことにしてしまう』
『その力を手にすることは、決して素晴らしいことではない...!』
人より秀でている、『才覚』とは、本来自身の根幹たる自信や、他者からの評価につながるものである。
しかし、彼女は魔法のことをそうは評さない。
彼女にとって、『魔法』とは、身に付けた『才覚』なのか?
ある日突然、強制的に身に付けさせられたものなのか。
理由こそ定かでないが、彼女にとっての魔法とは、『出過ぎた力』という解釈なのだ。
だからこそ、魔法の存在に否定的である。だからこそ、このような持論を発する。
綺麗に咲いた百合の花々。それを前にし、否定の感情を吐く新月。この矛盾したような二要素の混在が、このシーンの光る所だ。
(また、深読みかもわからないが、咲いている白百合は、満月の乗機「ホワイトリリー」と名を同じくする。
時期尚早に咲く百合の花は、ホワイトリリーの力の目覚めが早すぎることの暗喩かもしれない。つまり、満月がホワイトリリーに乗ることの悲劇性の暗示である)
- 悩ましい所
→カット間の端切れの微妙さ
非戦闘回だから、全編同じようなテンポで進めていい...という訳ではないだろう。
どの会話も同じようなテンションと間で進められるため、「ここ!!」というシーンがちょっとわかりづらいというか、気迫に欠ける感じがした。
この回で重要なのは、後半の新月の独白~花が咲く、という部分であろう。
個人的に、この辺りは色彩をもっとどぎつくしたり、ここだけカット割りが明らか他と違う、みたいにしてくれても良かった気がする。
つっても好みの話かもしれないが。
→アンナ一派の描写
この作品は群像劇っぽい気質をみせていると思うので、
単純にギスギスしか見せていないアンナ達3人のやりとりは、見る側にとってはあまり気持ちのいいものではないし、どのような背景からそうなっているのか、という事情は現状示されない。
作中のヴィランとして、もしくは同情の余地のある、運命に囚われた少女として彼女を描くのかも分からないが、どちらにせよ、今後の掘り下げ次第か。
- 気になったネタ
→新月の磁場操作
こういうのが元ネタ?
要するに、一般論としてあるような、「スマホやPC,ゲーム機などが発する電磁波的なものが、使用者の脳に悪影響を及ぼす」というアレの解釈を膨らませたものか。
- 少女の「戦闘服」としてのアルマノクス
魔術師たちの戦い、それに用いられる器たるアルマノクス、という構図だ。
この構図では、アルマノクスが「魔法少女になる」ことでも代替可能ではないか。
という懸念が、僕の中にはある。
つまり、この作品は、単純に、ロボの出てこない、少女たちが魔法少女に変身し、魔法をぶつけ合うバトルロワイヤルとしてでも成立するのではないかということだ。
しかし、「魔法少女バトロワもの」はこれまでに幾度となく登場している。
その部分の差別化を狙って、「魔法少女」ではなく「ロボ(それもディフォルメ頭身)」というちょっとした変化球で今作をぶつけてきているというのはわかる。
この作品のロボ要素が、代替可能な一表現ツールとして埋没してしまうものなのか。
それとも、ストーリーや世界設定の根幹になくてはならない、さらに言えば、少女たちのキャラクター性の象徴としても強く訴えるものたりえるのか。
それがどちらに揺れるかが、この作品の今後の見どころの一つになるだろう。
何気に、「魔法少女たちのロボ戦闘もの」なんてありそうでなかったし、期待なんだよな~~~。
ガンダムはじめ、「少年にとっての巨大ロボット」は、未成熟な身体の少年が、先を行く大人たちと同じ土俵に立つための「代替」、もしくは「拡張身体」として機能してきた。
しかし、今作のように、物語の根幹が「少女たちの戦い」で、「大人」という要素を排除し、更に主人公は「少年」ではなく「少女」ときている。
つまり、今作におけるロボの役割の果たしどころは、自らと同年代の「少女たちの戦い」にどのようなコミットメントをみせるかということだ。