堕落
暑い一日であった。
ほとんど、何もしていない。
仕事面で、休日にこなそうとした事はあった。
にも関わらず、分かっていながら、外へは出なかった。
理由は何か。
「面倒くさいから」だ。
時たま自分が嫌になる。
言葉をもらすと、その言葉は聞こえがよく、体面だけは本当に立派で、大言壮語というか、思想家のようなスケールで物事を綴ってしまう癖がある。
しかして、言葉を吐く自身が、それに全く見合っていない。
そのギャップに絶望をする。
だったら、何も言わない方がいい。
何もしない方がいい。
このように思う。
しかし、完全なる自己否定というのも、また不健全なもので、抑圧は必ずどこかに噴出してしまい、ストレスとして日常のどこかに進出したり、侵食してしまうものだということは、流石に理解した。
だから、「自己嫌悪」をそのまま自己嫌悪の感情として終えることは、それこそ、非生産的であると分かる。
…ほら、にしてもこれだ。こういう、自分に生産性があるか否かという悩みが、先の「大言壮語的」なんだよ。
生産性云々言えるような、上等な存在か?ということ。
…そのような悩み自体、どうでも良いことなのかもしれないが。しかし、僕は考えてしまう。
例えば。
他者が、道を歩くとき、目の前に大きめの石があったとしよう。そのまま歩くと躓き転んでしまうので、それを避けて通る、という選択肢が、ごく普通というか、何のことのないやり方だ。
僕は、恐らく、すぐに「避けて通る」ことが出来ない人間だ。
石の目の前で立ち止まり、
「どうしたらこの先に行けるだろう?」
「この石を、ジャンプして飛び越えてもいいかもしれない」
「そもそも、どうしてここに石があるのだろう」
「この石は、どんな材質由来なのだろう」
云々、考えた末に、
「あ、避けて通れば、進めるな」
と思いつき、その通り進める。
余りにも、ペースが自分本位なのだ。
…しかし、この解決策はとても単純で、
「じゃあ、行動すればいいじゃん」
ということだけだ。
とはいえ、行動にはエネルギーが伴う。
思うは易し、行うは難し…
人間、感情一つで行動を起こせれば、ものすごく立派なものなのだが、社会との関係、そして疲労など、多くのものと切り離せない世界に身を置いてしまっているため、行動するということは、大変だと思い知る。
気持ち一つでの行動には、限度がある。
となると、「やらざるを得ない」状況を作ってやるしかない。
それは、他人と関係を作るということだ。
僕は最近、それをした。
振り返れば、何もしていなくはあったが、そういう「ツテ」は作っていたと思い出した。
小説書きの創作する後輩に、キャラデザで手伝うよと言ったこと。
個人のイラスト教室に、また行きますと言ったこと。
資格の検定を来月25日に受けると決めたこと。
(これは、期間延長したけど。情けないが)
かつての女子の同級生に、またあう約束をしたこと。
思えば、行動はしていた。
そう考えれば、僕は良くなっているのかもしれない。
しかし、誰と比較してかは置いといて、本当に小さな、小さな一歩の歩みでしかない。
この言葉を書き綴っておこう。
「好きな気持ちを伝えるには ずっと想い続けるしかない
気ばかり焦るけれどコツコツ ひとつひとつ…」
SHIROBAKOという作品に対して、僕の好きなスタンスもこれでありたい。
誰の言葉か知らないが、このような言葉を、最近、常に胸に秘めている。
「愛は育てるもの」
これは、本当にその通りだと思う。
愛することは大変だ。そして、人間は、多くの物事を愛することができる知能をも有している。
愛は、狭く深くなんかでなくて、広く深く注ぐこともできる。
おおざっぱだが、「大変な努力」をしてこそ、それはできるはずだ。
最近の買い物。
実は最近、オタク的買い物をしすぎた。
「散財」である。
来月から、また出費を控え、出費記録を残そうと思っている。
…でも、タイプライター買おうとか、買うガンプラ決めたりとかしてるけど…それはそれだ!!
とにかく、予定しているもの以外は買わないということだ。
買おうと思うこと、そして買い物をする時、買って消化をするとき。
「買う」という行動ひとつにも、これだけのカネと時間のリソースを費やすというのだ。
それは、今後オミットしていく。
アーマードミュウツーらくがき。
一枚絵描くことをきめた。
アーマードミュウツー、かっこいいよ。
でも、色々思うことはある。
カッコイイけど、健全な、メカニクス論を更新する革新的カッコよさではないし、
「拘束具を纏ったミュウツー」という存在の考察に基づいたデザインではないことも分かる。
つまりこのカッコよさは、「商業的、玩具的、絵的な『ダーク的カッコよさ』」の追求にのみ焦点を当てたデザインだ。
それは、要するに記号的なものでしかない。
哀しいが、時代に埋没してしまうデザインなのだ。
しかし、埋没しない要素がある。
それは、アーマーを着込む「ミュウツー」自身には、不動の魅力があるということ。
ミュウツーの魅力談義をする時、話題の一つには上がることはあるだろう。
その点は、他の「忘れ去られるメカニクス」とは違うところとも言える。
ラクガキ。オリロボ。
これに描いてる「ウェアラブル・ファザー」という文字があるが、同名の作品を、いずれ創作したいと思っている…
衰退し、存在価値やその必要性を問われることが薄くなってしまった今日の「ロボットアニメ」、そして「巨大ロボット」というものの意義を捉え直して、時代の文脈に即した「巨大ロボット」を描写したいと思いから、ちょっと構想を練っているものだ。が、その前にやることあるだろ。そういう所が駄目人間である。
…しかし、日本のアニメーション史を語る際、「ロボットアニメ」「巨大ロボット」の存在、想像力は、必ず切り離せない、とても大きな一要素として存在していることは確かだと僕は感じている。
ロボットアニメは無くならない。でも、そこに胡座をかいてイイわけでは、決してない。
ロボットアニメのみならず、他のアニメ然り、時代の文脈を忘れてしまっている作品は存在する。それは、「作業に追われてしまうから」だ。そして、そのような作品は、哀しいが、必ず埋もれて行ってしまうのだ。資本主義社会というシステムの中には、本当に残酷としか言いようのない、このような現実が存在してしまっている。
そうならないためには、「訴えるものの意味性」を常に考えなくてはならないし、その訴え方をも考えなくてはならない。
ほら、まただ…また、身の丈に合わないスケールの話をする…