なら、あたしはアルパで守ってあげるわ、シャア…!
サザビー進捗。あとは右腕とファンネルを描こうと思う。…今週中無理とかいうだらしなさ(^_^;)(^_^;)(^_^;)
台詞を記事にすると、語りたくなってしまう。
巷ではウザいとかヴィランとかいらないとか汚いミクさんとかも評されて散々なクェスだが、僕はとても好きなキャラクターである。
一言で評するなら、自意識や才能の吐露をとても歪な形で発した、発せざるを得なかった、そして母にもなり損ねた『少女』なのだ。
さらにその少女を脱しようとした少女像としてのクェスは、確実に宇宙時代を描き、そしてある程度の歴史を劇中で積み重ねた宇宙世紀という架空作品でしか描き得ないリアリズムと共にあるキャラクターであると僕は確信している。
同時に、クェスの家族観の感覚は、現代のティーンエイジャーや、20代前半ほどに近い、とても現代的なものであるとも思えている。これはやや経験則的な感想でしかないのだけど…
で、タイトル通りのクェスの台詞について。
クェスにとってのアルパ。
α(アルパ)=『第一の』、
アジール=『聖域』
である。
彼女にとってのアルパは、自身がくつろげる空間や居場所であるという解釈だ(初の聖域)。
居場所を得られたという自覚を得たクェスの心は、落ち着きどころを見つけ、しかしやはり14歳頃の思春期であるから、年相応の増長を見せてしまう。これは、「そう状態」に近しいかもしれない。
で、そのように気分が上向いているクェスは、シャアがララァに母性をも求めていたことを肌感覚で感じ取っていた。
そのようなシャアの、女性への潜在的欲求を、彼女なりに満たそうとしたがゆえに、
アルパというMSよりも巨大なMA=母の象徴を以って、シャアを守って「あげる」と言ったのだ。
そしてこの時、「シャア」と名前で呼び捨てにする。
「シャア、あなたを」、「大きなアルパで」、「守ってあげるわ」。
このような言葉は、その言葉だけ切り取るならば、とうてい少女のそれとは思えないだろう。
彼女なりに、シャアが何を求めているかを感じ、必死にそれを満たせるものに「なろうとした」。
その想いには全く淀みがないのだが、価値観自体の愚直さ故に、シャアにはどこか軽視、もしくは利用できるものとして捉えられてしまう。
また、クェスも、こう想うこと以上に想像力を広げることができなかった。
その想像力の限界が、後に因果の帰結=クェス自身の死へと向かっていくこととなる。
その帰結の作劇でのロジックは、半ば露悪的ともとれるが、やはりとてもシビアな価値観を突きつけられると思わざるを得ない。