はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

人の死に、ドライであること

2019年。夏の終わり頃のことだ。
前年の10月頃まで、自店に配属されていた先輩・西さん(仮名)の訃報が届いた。

先輩といっても、僕は20半ば、向こうは50を迎えようという年の差ではあるが。
立場上、「先輩」なのだ。

翌日、式が行われた。

西さんは生涯を独身で終えた。
葬式には、それまでの彼の社内で関わりがあった人たちだけが、ほぼ参列していた。
関わりのあった人。それは僕もそうだ。

西さんは職人肌を思わせる人だった。管轄違いのこともあり、シゴかれたというほどつきっきりにしてもらったほどではない。
それでも、飲みに同席する、事あるごとに指摘を受ける、諸々の機会があった。
鑑みるに、それらは「思い出」と確実にいえた。

当然ながら、葬式は静かに行われた。本当に静かであったが、
時間が経つと、誰かがすすり泣く声も聞こえてきた。
大人も泣くのだ、と僕は思った。

労働者は忙しい。泣くほど何かに感慨を受けるような、そういう気持ちの振り幅など残されていないのでは、と僕は思っていたが違った。

大人も泣くのだ。仕事の繋がりとか、忙しいから、どうだって話でなく。
西さんを想い、涙を流す人は、少なからずいた、それが事実だった。

僕は、仕事の付き合いだから割り切るだとかいう、少しずつ勢いを増しつつある世論に、どちらかといえば賛同する立場の人間であった。

しかし、こんな場面に出くわしてしまえば、戸惑いを受けた。
そして、確かに僕自身も、西さんにお世話になったことを実感してもいた。

だから、僕も泣きそうになった。が、涙は出なかった。
表情こそ変えなかったかもしれない、しかし、悲しみと戸惑いを大きく感じて、自身がどう感情を発露させられればいいか分からなかった。だから、泣けなかったのだ。


「あの人も、この業界の犠牲者だよ」
僕が在籍する店舗のヘッドたる本部長が、そうこぼしていたことを強く覚えている。

"この業界"。人手は慢性的に不足していて、あっちやこっちやと配達は派遣される。
長期休暇など夢のような話で、いつぐっすり眠れるかも分かったものじゃない。

西さんは、文字通りこの業界に身を捧げたのだと思う。
疲労、乱れた食生活等諸々が災いし、体を壊していることは僕は知っていた。
そして、恋をする時間、体を休める時間を失った。

このとき誓ったこと。西さんには申し訳ないが、
"自分は必ず、このような死に方はしない"と。
でも、西さんの在り方は否定できるものじゃない。文字通り、業界に殺されたのだから...。

生きものって、愛を育てて、それを自分たちなりに正しくつなげて紡いでいくことが、理想的な形だと思っている。
少なくとも僕らに生殖器と、オスメスという性別が産まれた時から付与され続けている限りは、この性から抜け出すことは困難だろう。

だから、そうできずに死んでゆくことは、相対的にでなくて、絶対的に嫌な気持ちとともに幕を閉じるのだろう。

 

 帰宅した後、夜はその日の出来事を知人に通話していた。
そして僕は、彼女に自分には悔いがあったことを伝えた。僕にも、生前のあの人に、出来ることがもっとあったんでないか、と。
「そういうこともあるよ。しょうがないよ」
「でもさ、ナオくんいつも仕事忙しいんでしょ。頑張ってるじゃん。それでいいと思うけどな」
こんなような言葉が返ってきた。
なんだか、実感がない言葉を言ってくれるな、と思いもしたが、
そう言われて、救われたことも事実だった。


生まれ変わったらどうの、なんていう話をするの、ロマンチストすぎるかもしれないが、
西さんは、生まれ変わることがあるのなら、お願いだから幸せに生きていてほしいと、心底思う。