レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

あぁうぜぇな

イイ子ちゃんぶるのも、真面目なこと言うのも、うぜぇ。

心底目指す向上心とかが、大衆主義的なものに迎合してる物言いとか、そういうのを見たり聞いたりすると、吐き気がする。

心に素直になってみたことがある。
心底からの声に傾けたとき、ありとあらゆる希望とか、努力とか、輝かしいものに対して、
「うるせーんだよ、嘘つくなよ、美談仕立てにするなよ」
こう思いたくなってしまった。

丸裸にされたときの僕の心や、本音は本当に汚くみすぼらしく貧困であり、餓えていて、切れ味の悪いさびたナイフのようなものだと思える。


つらいって言えよ。もうイヤだって言えよ。頑張ってるんじゃねぇ。
やったって無駄だ。諦めろ。お前ごときが。


そう考えているときの僕は、無感動的であり、物理的に動いていないのである。

 

これは、自意識の話だ。
しかし、こうも厭世的な本音を吐露しているにも関わらず、フィジカルコンディションはすこぶる好調である。
心と身体の不一致。

身体が健康的であるのは、みすぼらしい自分でも包み隠さず、このように文章という形で可視化させていて、楽になっているからであろう。
睡眠時間も十二分にとっていて、不自然でないタイミングで三食を食べた。
シャワーも浴びたし、暑さで身体が汗かいてベタつくなんてことは、今はない。
少しばかり気がかりなのは、頭皮と身体のかゆみを少しばかり感じるということだ。
だが、譲歩して言うに、これは許容範囲である。

そう、その程度だ。「身体、ちょっとかゆいな。」コンディションの気になることは、これくらいだ。
物理的な、身体の飢えは、その程度なのだ。
だからコンディションが良い。


そして、外の世界を閉ざしているからだ。
誰かがナニかを発揮している世界。ナニかを発信している世界。切り開こうとしている世界。意欲的にしている世界。
自分がやろうと思ったことを、既に取り組んでいる世界。自分にはできないと思ったことをできてしまっている世界。
僕にとっての外界。劣等感、嫉妬、羨望。
だけど、裏返しはこうだ。連帯感、仲間意識、認め合うということ...
それでも、そのような心の機敏はいつも激しい。その振り子の振れ幅の大きさに、身体が振り回されているとわかる。

あなたは、ナニを考えているの。
ナニが好きなの。
ナニがしたいの。
ナニを求めているの。

僕のことをどう考えていますか?
何故そんな表情をするんですか。
今、楽しいですか?幸せですか?

僕を嫌わないでください。


目の前に生身の人がいると、考える。
いや、考えてはいない。そう心が感じている気がする。

だから取り繕う。嫌わないで。蔑まないで。

ひどく矮小化された関心ベクトルだと思う。

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●最近みた作品
メダロット
ニコ生で一挙放送やっていたからつまみ見しちゃった。
このアニメディフォルメめっちゃいいしメダロットの等身と間接の絶妙なバランスもステキだし表情豊かなメタビーめっちゃかわいい。
作り手の物語創作の関心が「メダロットという戦うメカと、それを用いた大会に挑む少年達の話」というよりも、「メダロットという、友達との代替物だが決して人間ではない存在がいる世界、そして人とメダロットが共存している現代社会の描写、その可能性」の方に重きを置いていることが個人的に親しめる。だから見ていて楽しい。
要するに、どことなくバトルはオマケというメッセージを感じさせる。これは色あせない。
この絶妙な設定ラインが突拍子もない脚本を許したり自由度高めていてそのイマジネーションの突飛さに驚かされたりするのよな。これは子どもを対象年齢に入れたいわゆるキッズアニメにわりと特有かもしれない現象。
「子どもに馴染む○○のいる世界」「実社会においては販促物である」「販促アニメとしての効用を満たすため長く展開する必要がある(数十話という話数を使える)」
こういった諸条件が良くも悪くも割との一部のアクの強い作り手のイマジネーションの発揮を許すときがあるのよな。なんだかガラパゴスチック。
メダロット魂は露骨に作画面での引き継ぎに苦慮してそうなのが伝わる...

・蠅の王
実写映画をみた。暴走する少年社会。大人という揺るぎない抑止力。
作り上げるシステム。暴力社会。生と死の価値観の未醸成ゆえの死への無関心。
工業的メカニクス(銃、ヘリ、各種装備)と非メカニクス(竹槍、簡易的なナイフ、麻布)。視聴動機はリヴァイアスの元ネタだからである。モチーフになっている部分がよく伺えたし、やはり無限のリヴァイアスという作品が21世紀版漂流モノとして正統的にブラッシュアップされているということを実感できた。
同作とリヴァイアスの呼応する部分を一部列挙してみよう。
・ラルフ→昴治の正論、イクミの実行力(暴走しない程度)
・ピギー→チャーリー(あだ名のつけられ方からして)、明弘の引っ込み思案
・ジャック一味→チームブルー
・軍の大人達→軌道保安庁、下村、コンラッドの良心、灰のゲシュペンスト(規定通りに公使される”チート”)、力を持つが故の弱者への”保護”
逆に、呼応しないからこそ面白い部分。
それは、”メカニクス”だ。
蠅の王には、子ども側には”メカニクス”がない。あるにしても、それに近いものを自作する程度だ(竹槍)。
リヴァイアスはどうか。”メカニクス”が『遺されている』。
つまり、少年達自身が乗り込むリヴァイアスの存在、そして絶対的な暴力の象徴たるヴァイタルガーダーことアインヴァルト。

蠅の王にて。彼らは漂流した自分たちの救ってほしく、大人を求めた。しかし諦め、自活をはじめた。それでも、秩序の崩壊により、やはり大人を求めた(ラルフ)。そして最終的に、やはり大人に保護されたという図式だ。
リヴァイアス。大筋は同じだが、大人の遺した”メカニクス”たる黒のリヴァイアスとヴァイタルガーダーの存在が仇となり、彼らは大人を求めつつも、自ら大人を排斥する(VG戦はじめ数々の航宙戦闘)。ここが最大の違いである。だが、最終的にこちらもやはり自壊していく。望む、望まないものはいようが、大人達に最終的に保護される。

「大人に保護される子ども達」は、文字列だけみると平和かもしれない。
それでもこの両作で描かれる側面として、「なぜ助けに来るのだ」という絶望感がある。

自分たちが生きる世界に大人はいない。社会はない。むしろ、「大人」という概念を忘れている。
というよりは、自分こそが大人であり、社会である。だから、お前たち子ども(漂流する周囲の他者)を引っ張っていってやる。
自分の持つ権力こそが最大なのだから、自分の行うことが正しい。間違いはない。勝利する。自分の選択こそが、未来につながる。

このような確固たる信念を抱く子どもがいる(蠅の王:ジャック、リヴァイアス尾瀬イクミ)。

それが揺るぎなかったからこそ、確立されたシステムと暴力の執行体制を併せ持った「大人」と物理的に対峙し、そして敗北したときに、心底絶望する。
「自分のこれまでのすべては間違っていた」と。
この絶望は計り知れない。


・ラヴ&ポップ
今、こうして記述をすることでだいぶ心がおちついてきたが、休日にあたり、何をするでもなく心的負担だけがただ増していく中、僕は自意識の世界に陥っていった。
そのとき、そのような自意識の物語を記述したものは何であったかを考え、すがった。
そのとき思い当たったのがこれだった。そして、同作は観たことがなかったので新鮮であった。

女子高生という、世間的にはかわいがられる時期。華とされる時期。
処女性と隣り合わせの時期。青春とされる時期。

モラトリアム。自分はどこか特別なタイミングに生きているのかもしれないという浮遊感。
そのような感覚を記述というか、描写した作品だと思えた。

庵野秀明的自意識の記述法は、小学校高学年時に初めて視聴したエヴァによって忘れられずこの心に刻みつけられた。以来呪いのようにときたま僕の心に幾度となく自問自答が繰り広げられてきた。
そのような僕にとって、裕美という少女の心は、視聴中においては僕の心でもあった。

裕美は、「踏み入れる」ことに思いとどまりがあった。

友達を鑑みる。一つの道へ傾倒することに疑念を持たない。情欲そのものと隣り合わせの大人の恋愛へと踏み切る。目的のためにお金を貯めて使う手段として、女子高生という身分を商品化することを割り切る。

皆どうしてそんなことができるんだ。

私もそうしようとしてみた。でも、ショックなことばかりだった。
振り返ってみるとやっぱり大変だった。でも、欲しいものがある、目的があるのは確かだ。

同作の男たちはどこか人間味を感じた。
裕美たちを「身体的欲求を満足させる女体」として捉えているでなく、
「生身の身体をもつ他者」として受け止めているように思えたからだ。
男たちにとっても、セックスでなくコミュニケーションを求めていたのかもしれないと思えた。

嫌な話だが、僕は視聴後暴走した。
できれば、僕も女子高生と話をしたくなった。援助交際という形でもいい。
当事者の自意識、そして僕自身の自意識、それらを吐露し合いたかった。
セックスがしたいわけじゃない。心が洗われたかった。
セックスというより、互いのオナニーをし合うような、そんななれ合いを求めていた。
一方的にお金を払ってでも、それをしたかった。

しかし、どうやら現実というものは、そういった行いを取り締まっているらしい。
だが、欲求のままに動こうとし、ある出会い系アプリに登録をした。

そこでメッセージを送ろうとしたところで、何故か我に返った。

これは一時的な欲求の晴らし方でしかない、と。
刹那的なコミュニケーションは、僕にとってはストレスにしかならないと。
今までを振り返ってみてそう思えた。
また、そんな哀しき事後感のみが残るであろうものに対し、数万というお金を費やせるものか?
そうとも思えた。
それは、愛のための行為じゃない。

だから僕は、そのアプリをすぐに消した。

dアニメストアin niconico
正直なんで加入しなかったのかというくらい、ラインナップが素晴らしいことに気づいた。
・まんが世界昔ばなし
十五少年漂流記」、「はだかの王様」、「ガリバー旅行記」、「ああ、無情」を視聴。
十五少年漂流記
リヴァイアスの元ネタなので。ただ、僕の教養が浅はかなのだろうか、こういった
善性の高すぎる教科書的なお話があまり馴染めない(みんなで仲良く、困難も超克、ハッピーエンド)...。なので、内容の好き嫌いはともかく知識としては吸収した。

→ああ、無情
おじさまと女の子萌え。性癖である。コゼットかわいすぎる。
一年ほど前「奴隷との生活」でシルヴィを愛したがまさにそのときのような気持ちであった。が、この作品、名前の通りか実は悲哀物語のようだ(この物語ではジャンバルジャンとコゼットが幸せに暮らしましたENDだったが原作はその後も続いている)。
Wikipediaでその後の展開をみてしまったが個人的に実に馴染む作風であったし原作と同じ展開で曲がりなりにも「まんが世界昔ばなし」と子どもを対象にした番組内で語るにはやりづらかったであろう。
が、これってやや偏向気質だよな。要するに、
「子どもにはすてきなおとぎ話をお届けしてあげよう」というのは、なんかつっかかる。
思惑的である。確かに8歳とか9歳とか、小学生とか、そういった年の者は、社会通念的に子どもと定義されるが、その感性を「子ども=ハッピーエンドを所望する者」というイマジネーションで展開する同作の論調はやはりいささか疑問点である。
ただ、これは「まんが世界昔ばなし」が展開された時代の風潮ゆえの制約的な部分もあるのかもしれない(なんせ1970年代のアニメーションの扱いは、未だに子どものもの、俗、電動紙芝居というレッテル張りの域を出なかったらしいのだから)。
ただ、正直、とうてい子どもに向けて発信しているか怪しい「ああ、無情」を、子どもをターゲットとする「まんが世界昔ばなし」という媒体から発したこと、その取り組みの意欲は賞賛に値したい。
願わくば、当時の子ども達に、「原典を調べたときにトラウマになった、ショックを受けた、衝撃を受けた」者がいることを願うばかりだ。

 

ちなみに現在は「灰羽連盟」観ています。
ほんとは長らくずっと観たくて放置してた。
こういうのいっぱいあるから今後dアニメストアさんに癒やされようと思う。