アニメ映画「ふりふら」をみた
すっげーーーーーーーやなんだけど、
「そうなんだ、すごいね!」みたいな感想しか湧かんかった。
起承転結がとてもきれいにまとまっていて教科書っぽい作品だなぁみたいな印象しか湧かんかった。
で、所々誇張表現があったりするのだけど
なんか緩急の付け方がいきなりというかねじ込み感あるというか。
「主観ではこういう風にみえている」というシーンをとてもキラキラして描かれているのをみるの、苦手なんかな。
こういう考え、「人のセックスを笑うな」に通ずる所があるんかもしれない。
AとBがいる。男女。二人は相思相愛で絶頂期だ。
その二人の会話は、こうだ。
「今日はいい天気だね♪」
「うん、とてもいい天気だ!」
(その晴れはまるで、私たちを祝福してくれるかのようだった)⇦ナレーションとかで演出
ここにこれを俯瞰するものをおくかどうか?という話である。
作中にCという、上記二人を第三者視点で見つめる者をおく。
「いや、ただ普通に晴れてるだけじゃん…あほくさ!」
みたいに喋らせる。もしくはジト目をおくるとかする。
こういう視点が欲しいの。
これがなさすぎて、主観的すぎる作品で冷や汗が出る。いや、そのバランス感覚を担うために作中で人間関係の渦がどうのこうのあるんだけど最終的に大団円だ。
これによって、「私たちの全部は正しい!オールオーケー!全部うまくいく!キラキラ!」みたいに言ってるようにしか思えなくなる。
辛いんだよな。
そういうのつらいわ。
やめてくれ。
リメンバーミーという作品をみたときも同じことを思った。
世界はキラキラしまくっている!さあ君も!みたいな。
これは至極個人的な感情論だが、ウゼェ!と思った。
ポルノグラフィティの歌詞を借りれば「100万人のために謳われたラブソングなんかに僕は簡単に思いを重ねたりはしない」というやつだ。
ちっぽけな自意識をただただ大事にして自衛する。
こういうのを見せられて、イヤになるのは、
単にキラキラするものに辟易するだけじゃない、
そういうものに感化されることを恐れている、ともすれば変化を恐れているかもしれない自分が愚かしいかもと思えて、その自己嫌悪にも陥るのだ。
ああ、僕の感受性は、何も変わっていないのだな。
作中、りおくんという男の子が、家族に境遇についてきちんと話し合おうとするシーンがあった。
立派だよ。家族関係について腹を割って話そうとする、そして行動に移すの。
そういうシーンは辛かった。
僕は、家族に心底の胸中を明かすなんてことはしなかったし、そうしようにも、もう一人暮らしはしているし、そもそも、そんなことに割く時間とか、考えるリソースを考えると到底…という感情で、もう諦念を抱いている。
そして、姉と話したこともある。
「もう夫婦関係なんて変わらないよ。それぞれ自分のやるべきことをやるほうが建設的だと思う」こういう意見をもらったこともある。
で、僕が向き合うべき家族、その中に、姉もいたのだが、姉はもう、自身としての幸せな生き方を見つけ、その道を大事にしていると思っている。今の彼氏という存在のよるところが大きいと思う、そう考えると、僕がどうこうせずとも、事態は好転したのだなと思って、結局なんか、何もしなくたってよかったんじゃん、みたいに思う。
正直、友達についても同じようなことを思う。
みんな自分の人生を生きるし、幸せそうにしているように思う、で、その人の人間関係において僕はなくてもならないものとかそんなことでなくて、ただの人なんだなと。
で、なんとも思われていないのならもういい、僕は僕だけで僕のやりたいことをとことんやってやる、それで存在感を見せつけるべきところに見せつけてやる、という思考になった、
それでポケモンばかり、おえかきばかり、自分の中を大きく占めるものは人生においてその二点だった。
しかしこの考え方は不幸せだ。なぜなら上には上がいるから。
そう考えると、捧げるものを捧げられるだけ捧げたつもりであっても、その道のプロであるとか、まー色々、考えるとキリがなくて、それで劣等感に苛まれる。
友達なんて…だったら俺一人でも!という思考から、孤高を気取るが、その上の存在を突きつけられ、その上の存在とやらは、和気藹々と楽しんでいるようにみえる。
人間としても、技能としても上だということを突きつけられ、自分という存在の根幹を叩きのめされる感覚に陥る。
一言でいうと、孤独と劣等感だ。
なあ…なんの話をしていた?
ふりふらの話をしていたんだ。
要するに、僕は、共感をするとしたら、根底の根底の、本当に歪な感情をみせてくれて、「人間として」愚かで、汚くて、そういうものを見せてくれないと、共感できないと分かってしまった。
同時に、僕という人間の自我みたいなものが出来上がってしまって、共感できないことにすごく辛くなった。
こういう作品に、「泣いた!感動した!ここに共感した!ここすき!なんたらかんたら!」て嬉しそうに語ってくれる人が目の前にいたら、僕、なんて答えればいいんだろう。
嬉々として返事をして、共感を得たいよ。
でも、そういう感受性を、僕は身につけていない、身につけようとしなかったんだ、こじれてしまったまま時が過ぎてさ。
あ〜〜もういいだろ。
ガンソードという作品で、
敵の幹部同士で恋愛描写がある。
なんやかんやあって、敵基地がいよいよ崩落という時にこの二人は真実の愛っぽいものに目覚め、見つめ合う。
その瞬間、上から瓦礫が落ちる。
で、ここが面白いのだが、どうやらこれ、DVD版ではそこから逃げる足音が追加されているのだとか。
つまり、二人はそこで人生の幕を閉じたか、さたまた閉じていないのか、そこは受け手の想像に任せることとなる。
僕が、エンタメとして好ましいのは、こういうのだ。
で、「相思相愛」なんてのは、こういう描写一つで普通に分かるもんだと思う。
こういうシーンが好きなのは、実に効率的だし、作劇として面白みがあるからだ。
と、同時に、「愛し合ったと自覚した瞬間の敵同士は建物の崩落に巻き込まれる」というのは、受け手の「リア充死ね!」の具現化ともいえるし、「えっでも二人ラブラブなのにかわいそう…」と思うものへのフォローとして、「実は逃げてるかもよ」という音を追加する。
含みがあるし、「他人の恋愛ってさ…」というどこか滑稽っぽく思う視点を「上から降ってくる瓦礫」が具現化してくれる。だってこいつら敵だぜ。お前たち主人公組に負けたろ。敵はやられる。あーすっきり。というカタルシスも表現してくれる。
…
なんか大きく逸れたけど、結局、少女漫画的恋愛ものとか、そもそも恋愛を取り扱った作品とか、そういうものに慣れていないのか?
とも思えてきた。
いや、僕は、恋愛を「恋愛」とだけでフォーカスして考える、というのが肌に合わないと感じる。
AからみたBがいる、Bと結ばれるための物語で、そうなったらゴールです、みたいな、着地点が決めているかのような作風というのは、どうも、なんだか…だ。
結局男性的な目線しかできてねーのかも。
パーソナルな視点だけでうまくいきました〜っての、もごるんだわ。
取り巻きとかなんも変わってないし、普通の日々なんだけどなんか自分としてはこういう世界のあり方をちょっと愛せるようになった。みたいな目線のが好きかも。
パーソナルな視点と世界の視点、この両方の着地点をよく描いたのがリヴァイアスだ。
だから僕の中の評価基準、今はこれになっている。
あ〜〜、結局好みの話しかしてないや。