レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

宇野さんによる劇パト論(メモ)

www.youtube.com押井守からみた「パトレイバー」は、こうなのでは

自分が職業として向き合うことになった現場というものを通じて
職業倫理を通じてプロ意識に目覚めて社会化されていくとは、当たり前のこと
→フィクションを構成するには弱いと感じる。
その辺のコンビニや雑居ビルオフィスでも、日常茶飯事で起きていること。
そこにロボットや、コンピューター犯罪とか、そういったものを導入して描くようなことではない。正直新社会人のブログでも読んでろよって感じ。

→劇場版パトレイバー1は、ゆうきまさみ出渕裕のそういった青臭いところもうまくスパイスに使って映画として成り立たせている。それは、押井守という演出家がいるからだ。
押井守の映画にとっての野明や遊馬の青春群像というのは表層に過ぎない。氏が真に描きたいのは『都市論』である。

(ここから都市論の話へ)

 

 

 

全共闘世代がバブル社会を批判する

・原作「うる星やつら」への、「ビューティフルドリーマー」で描かれる同作への批評性

→同作で描かれるキャラクター劇は、消費社会(バブル社会)の構造そのものであり、アメリカの核の傘に守られた『他者を排除する側に立つことによって得られる平和』である

という見方

 

僕個人の私見
宇野常寛氏のこの評論は、『劇パト2』での荒川の主張に通ずるものがある。

 

www.youtube.com

荒川「後藤さん。警察官として、自衛官として、俺たちが本当に守ろうとしているのは何なんだろうな。
前の戦争から半世紀。俺もあんたもこの方、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。
平和...。俺たちが守るべき平和。だがこの国のこの街の平和とは一体何だ?
かつての総力戦とその敗北。米軍の占領政策。ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦。民族衝突。武力紛争。
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺たちの平和の中身だ。
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な対価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和。

後藤「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。
不正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ。」

荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのは分かるよ。かつてそれを口にした連中に、ろくなヤツはいなかったし、その口車に乗って酷い目に合った人間のリストで、歴史の図書館はいっぱいだからな。
だがあんたは知っているはずだ。正義の戦争と、不正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。
平和という言葉が、嘘つき達の正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることが出来ずにいるんだ。
戦争が平和を生むように、平和もまた、戦争を生む。
単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実態としての戦争として埋め合わされる。そう思ったことはないか?
その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れたふりをし続ける。
そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると。」

後藤「罰?誰が下すんだ。神様か?」

荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知り、何一つしない神様さ。
神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。俺たちが奴に追いつけなければな。」

(余談:おそらくこれが、押井守本人の主張も混じっているものなのだろう。

 

*1

 

 

宇野さんの押井作品の見方に則ると、

押井守の「うる星やつら」、「パトレイバー」に対して、それぞれこのように見ていると考えられる。

うる星やつら→若者たちのどたばた劇。その劇を成り立たせているのは、暴力や血といった痛みをすべて外部へと排除させることによって成り立たせている。

パトレイバー→青春群像主体。だがこれはロボットなんてガジェットを用いずとも成立するし、ただのありふれた話じゃないか?

 

僕は、作品の潮流に対する「アンチテーゼ」を更新し続けることによって、そしてエンターテインメントとして「楽しさ」をも提供することによってこそ、その作品は語られ得る作品になると思っている。

押井守はこれらの作品を、アンチテーゼどころか、もしや嫌っていたかもしれない。

それでも商業作家としてその仕事を完遂し、エンターテインメントとして成立させたからこそ、アンチテーゼ性をも含んだ「作品」として発信された。

 

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う~ん、、正直胸に刺さるな...押井氏の主張。

「お前ら若者ちゃらんぽらんしてんなよ。辟易するわ。その現状を形作ってきた文脈や歴史に対する関心でなく、その時の表層を追っかけることにだけ耽溺するのな。そういうやつの主張は正味どうでもいい」

というような事を言っているように聞こえる。

もはや、若者というか、「埋没してしまった若者」に対し、対話はするだけムダと思い、当事者意識、俯瞰意識をもった者同士でのやり取りにのみ注力している...ようにみえてしまう。

そんなことされると僕はこう思う。

「ひええええ大人こわいよ~~~~!!!!!!!!」

 

としか、今は考えられないし、まともな対論を自分の中で持ちえない。

が、そんな自分が情けないのだ。

今思うのは、こういった作品への「対論」を自分の中で育てられるようになりたい、という事だ。

 

 

*1:

連想したもの

「モニターの向こうに戦争を...」

 

Zガンダムカミーユあなたはいつも傍観者で人を弄ぶだけの人ではないですか!」

 

 

「誰もが神様みたいなもんさ。」

 

→映画『何者』より「頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな」