はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ブレンパワードという作品

ニコニコdアニメストアにて、富野監督の『ブレンパワード』を視聴した。

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●余計な前座
僕は、小学校六年生くらいの時にこの作品の存在を知った。
当時、中古で第二次スパロボαをプレイしていた(同作に「ブレンパワード」が出演している)。そのときの感想は「ブレンかっけー」程度のものでしかない、表層的な理解であった。
そして、OPも知っているくらいであった。このOPはわけがわからなかった。

それから、大学生の時にこの作品を視聴した。
「うーん、意味不明!w」という半ば短絡的な感想で、10話いかないくらいで視聴をやめてしまった。

そして、今。富野監督の思想史を知りたい一心で、純粋にこの作品を楽しむことができた。
そういう意味では、こんな言葉は使いたくないのだが、「大人向け」に近しい作品なのかもしれない。視聴者にもある程度観る度量を要求されるというか。
が、一度通しで観ただけである。やはり、理解をするのが難しいとも、ちょっと思ってしまった。しかし、感動ができる。この感覚は間違いない。

 

 

 

 

 

●作品の構成要素


☆超・超突飛なOP

☆生命力、神秘的

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☆ブレン萌え
☆会話劇が鬼気迫るほどに情感たっぷり

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ふしぎな作品である。
そして、生命力に満ちあふれている。

ガンダムを世に出した時、氏は映像作品で、アニメーション作品で「人間を描きたい」ことが欲求としてあったという。
その欲求は、伝説巨神イデオンにてある種一つの到達点を経た。

 

イデオンの到達点:『死』

 

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ブラックホール - Wikipediaより引用)

 




人間を描く、知能をもった人間、その知能の欲する所、それは我、エゴ、そういったものであり、その集積体は、大きなエネルギーとなるが、エゴそのものが肥大化してしまったエネルギーが生み出す物(者)は、結局は死に回帰するしかない。

伝説巨神イデオンは、「死」の物語と僕は思っている。
そして、ブレンパワードは、この「死」を描ききったイデオンがなければ到達し得ない作品だとも考えた。

イデオンの「死」のファクター:強大なエネルギー発動源「イデ」、その発動器たるイデオンから繰り出される、イデオンソードやイデオンガンといった武装の表現の数々は、おぞましいほどの威力で描かれる。例えば、イデオンソードは惑星一つを切り裂く。イデオンガンは、それ一射で艦隊規模の戦力を削ぐほどの威力を持つのに、イデの力の発動が大きくなる終盤では、制約がないかのようにそれを連発する。この力の数々は、純粋な破壊、殺戮の為に発揮される。

www.youtube.com

 


人間の、どんな部分が、エゴであり、悪性、死を招くのか。
その要素を文字通り徹底的に考えなければ、対義的な要素を考え得ないのだと思える。

 

イデオンの対局=ブレンパワード:『生』

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https://www.comeluck.jp/38501.htmlより引用)

ブレンパワードがもたらす作品の「イズム」には、確かに破壊がある。
しかし、破壊以上に、いや、破壊という描写がもたらすからこそか、
破壊以上の「再生」、「創造」という要素が際立つ。
たとえるなら、雨上がりの露に濡れた草花のようなものだ。
→生きる、生命を感じさせる、上向きなエネルギーを与えさせてくれる作品


・生命を思わせるファクターの数々
緑の木々、畑、光るもしくは急速成長する植物達、ひたむきな比瑪、
リビドーたっぷりなOP、そしてオルファンの女性像etc
さらにいえば、これはファクターというより作風なのだが、「人を生きさせる(戦争をしているが人を殺させない)」

すごく分かりやすいのだけど、イデオンは作中の登場人物が全滅する(端的に言えば)。
ブレンパワードは、人物の死は描かれない(例外も多少在るが議論の余地有り)。
これが決定的な、「死へ向かう物語」と「生へ向かう物語」の対局とも言えるのではないだろうか。

 

●エンタメとして「いい物」なのか?


これは、素直にはイエスといえないだろう。ここまで作品について論じてきたが、それは作風やテーマへの僕の所感であり、作品そのものの批評ではない。
映像作品が、観ていて「ワア!!楽しい!」となるものが良いとされるのであれば、
この作品は、視聴者にもエネルギーを要求する。言葉一つ一つを、よく聞き取り、何を描きたいのか、「考える」必要がある。
更に言えば、そこまでこちらも考えて作品の終局を迎えたとき、反射的には「アレッ」とも、きっと思ってしまう。
いわゆる「ブツ切り」の終わり方ではないが、「これから良くなっていくよ」ということを示し、示したその瞬間に終わらせる。
そして、この終局の描写も、正直なところ受け手の読解力に依拠する部分が大いにあるだろう。この作品に対しておおらかである、好意的である、そう受け取れた人間ならば、
この終わり方も納得できる...と僕は思っている。
なぜならば、事態そのものの趨勢はハッキリと描かれているからだ。
(要するに、オルファンは地球との共生を選択し、地球生命全体をより善くさせようと作用することを決意したし、人間達も、寂しいとか、不安だとか、憎しみだとか、そういう引っ張られる感情を必死で振り払い、オルファンを、対立する人を理解しようと必死に努力したもしくは努力し始めた、その対話が実ったということは伝わる)
いわゆる、その後の余韻だとか、「そして世界は...」という部分を描写していないだけで、おそらく作り手の判断で「冗長」と思しき部分をカットしただけなのだ。
「伝えたいことを伝える」ことに振り切った作品。
ちょっとメタ的な事情をいうと、それは同作品が地上波でなく、WOWOWという媒体で放送することができたからならではである。
この分かりやすい象徴はOPにも表れている。裸のお姉さんたちが海に空にたたずむカットの連発されるOPなど、どうして地上波で流せよう!w
しかし、それでも、「だからといって性癖全てを、描きたいものだけ描いていよう」という独りよがりな魂胆などなく、
「生きるということはどういうことか、考えてください」というメッセージを、これでもかと伝えてくれる。
「裸の女性達」は、性癖であるのはそうだろう。しかし、感脈もなく描くというワケではない。
生命力≒リビドー、エロスの象徴として、一糸まとわぬ姿の女性達を描いているのだ。
(性癖でいえば、OPの各キャラたちの裸体は、体格、胸の大きさまで描き分けられている。実はというか、普通に変態的である。しかし、それを作品性やテーマのもとに収まる範疇で発揮されているのが面白いと思える)



そして、この作品で描いた「生へと向かう気質」=善性のようなものは、
描くことこそできたものの、エンタメとして、公共性として歪な部分があった。
直後の作品たる∀ガンダムで、それらはブラッシュアップされることとなる(と思っている)。

ブレンパワードと∀は、プロトタイプガンダムガンダム、あるいは旧ザクとザク、あるいはザニーとGMのような...そのような関係だと思う。

 

●「ブレンパワード」というタイトル

 

僕は、「ブレンパワード」というタイトルが大好きだ。
とても力強いタイトル。それでいて、口にしたときにマヌケな響きでもない。
造語だが、「ブレン」、「パワード」という二つの意味は、はっきりと英単語としてわかるものだ。
長すぎないタイトルで、リズミカルな語感である。
一度そのタイトルを目にしたら、忘れられないような文字列のわかりやすさがある。

BRAIN POWERD。

 

brain=頭脳、大脳、知力...
powerd=動力?(powerd byで)~を動力とする、~で駆動する、...

 

観念的だが、このタイトルが示すもの。
作中の「ブレンパワード」は、「アンチボディ」の一種としても登場する。
なので、作中のモビルスーツ的な存在をそのままタイトルにしているという、従来のロボットアニメ的命名則に準じているという見方もできる。

そして、「ブレンパワード」という言語がもたらす意味。
知力が力をもたらす、だとか、ブレンパワードという存在は、人間(の知恵、知力)を動力とする、その拡張器、叶える、体現する器としての象徴...というような考え方ができるかもしれない。
人間の底力。そして、作中登場するブレン達。人間とブレンの関係性、可能性。
それらを総称した、包括的な意味としての「ブレンパワード」があるのかもしれない。

 

 

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主人公・伊佐未勇役・白鳥哲さんへのインタビューより。

放送開始より22年経った今。たしかに二十余年を経て、僕はこの作品を受容した。

たしかにこの作品は、2020年の今、僕の中に根付いた。

 

頼まれなくたって、生きてやる!