「絵が下手であることを魅力とする」
顔をウリにする、つまり俳優や芸能人といった人にみられるもの。
本来、人は有能である方が魅力的であるだろう。
その原理からいえば、「絵もかけるんだぜ」とアピールする方が得策である。
にも関わらず、「絵が描けない」、
=自らが視覚で感じたことをインプットする、それをアウトプットする能力に関して無関心であり、必要性を感じなかった
ことを披露する。
なぜか。
受容者のわれわれが、「お高くとまりやがって」と思っている彼ら(芸能人、俳優等)に対して、「弱み」をみつけ、それを嗤う材料としたいからだ。
「ただの人」が絵を描けないことが面白いのではなく、
その顔を広く売り出すことができている、周知されている人間が「絵が描けない」ことが面白いのだ。
僕らは、こう思う。
「ああ、こんなに稼いでるやつでも、絵下手なんだ。おもろ!俺の方がうまいじゃんw」
このようにして、安心をする。モニター越しの彼等は、雲の上の届かない存在ではないのだと。
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人の根源的リアクションを逆手に取ったような手法だ。
このようなアピール方法自体、僕は嫌いだ。
当たり前だろ。当人ができないことをできないと笑うのは気持ちの良いことじゃない。
そのようなアンテナの低さが人を虐げることを産むと思っている。
その自覚の無さが際限なく広がれば人間は動物化する。
このような「お笑い」、むしろ「お嗤い」の風潮は、消えてくれと思う。
では、それをお笑いとしなくなったときの「お笑い」は、何にとって代えられるべきなのだろうか?
人を蔑ろにしないお笑いは何か。
その一手段に、生身の人間が存在しない創作物の世界において成立し得ると考えている。