メカという文脈を考える(散文)
in日本。
●アニメメカで考える
切り離せない⇨
鉄腕アトム 宇宙の戦士 宇宙戦艦ヤマト ウルトラマン ガンダム マクロス エヴァ
(+α)山根公利
(+α)形部一平
・アトムはメカデザインと呼べるほどでないがそのイマジネーションの日本のパイオニア
・スタジオぬえのパワードスーツがメカニカルデザインというものを与えた
・ガンダムは一度その方向性のメカで一定の完成系をみた 巨大人型ロボットでありながらキャラクター性と象徴性を両立
・ヤマト⇨「現実の模倣」というメカ・イマジネーション
・マクロスは上記ガンダムヤマトのミックス、いいとこどり、オタクドリームを可視化しちゃった⇨バトロイドと戦闘機、「可変」のイマジネーション
・エヴァ。カラーリングとプロポーションは「人型メカ」のこれまでの源流を大きく逸脱する 初号機は主役たる白色、トリコロール的要素が一切ない どころかヒロイックというにはどこかエイリアンにも近しいプロポーション、あきらかなデザインラインの逆張り
⇨「得体の知れない」からくる「未知」を想起させる、「未知」故の強さの表現
・山根公利について。かの有名作カウボーイビバップのメカ郡を担当。「非人型メカ」でありながら、アニメーションに充分映えるデザイン。このアプローチは随一な気がする。
・形部一平氏。ガンダムにおいてGレコ、鉄血を担当。氏の表現するメカは「デザイン性」「カラーリング性」=視覚印象を第一とする。
パイオニアの大河原メカ、やトップデザイナーたるカトキメカ等、工業製品的メカとしてのアプローチとは全く別で、半ばイラストチックなメカ達ともいえよう。
顕著なのが、例えば装甲の片面に機体表現にふさわしいカゲを大きくいれ、その面の凸凹面のみ白抜きすることによりモールドや立体表現をするというアプローチ。これは資格印象として、例えばiPodの「シルエット、高彩度の背景一色、白いイヤホンの線」というアプローチに近い。氏のメカデザインとは、そのようなグラフィカルなイマジネーションからきているだろう。ここは本当に革新的だと思う。ガンダム 0083、ガンダム センチネルのような、「より緻密に、より高解像度にメカを描く」という力技の表現方法は既に脱しているという事だ。その点においては、ガンダム、ひいては日本メカニカルデザインのイマジネーションには、一つの更新がもたらされたともいえるのではないだろうか。
また、鉄血のオルフェンズという作品の素晴らしいところは、「線が多いっぽくみえる」メカデザインを表現したところにあると思う。
主にフレーム構造、腰部のフレーム露出の表現がそれだ。また、デザイナーが違えようがそのデザインフォーマットを用いている為、メカ郡が並んだ時に世界観を大きく逸脱するものにはなり得ない。これは絶賛すべきだ。
「フレームと装甲があるメカ」をデザインし、アニメーションさせる。これだけで線が多く見えるのだ(実際線は多めかも知れないが)。
●ゲームメカ
個人的に思う。こちらの方が先進的だ。
理由は単純で、「アニメ以上に画面の解像度が高いから」これしかない。
また、制作体制のグローバル化に対する障壁の低さも、メカニカルデザインの表現性のアップデートを容易にしている。
同時に、「3Dモデリング」というものは、メカデザインに打ってつけだ。
生き物には本来、輪郭線など存在しない。
無機物や構造体に輪郭線があろうとも、大したこと違和感にはならないだろう。「自分(たち)の体でないから」だ。
ゲームメカは、PS2の時代辺りからどこか欧米的意匠を感じられるようになってきた気がする。例えば、メタルギアREXや、アーマードコアのメカ郡である。
こちらのメカ郡は、人型に拘りすぎない。
アニメでは、「物語、没入感」を第一義とする場合、自らの身体の延長たる人型を想起させるメカが存在しなければそれは成立し得ない。
しかし、ゲームではこれにこだわる必要はない。一番大切なのは「遊ぶ楽しさ」だからだ。
それを追求する為に、メカがどんな形をしていようが大した制約はない。但し、この自由度が返って作品の世界観の統一感を歪なものさせる可能性も孕んでいる。
●翻って、アニメメカデザインを更新するには
・デザインをグローバルにする
・世界観の統一性+ゲーム的メカデザインの融合
後者の要素はさておき、∀ガンダムのデザインは一つの頂点だと思う。
最近思う事。現代のエヴァみたいのきてくれ。
少年少女と、世界が接続される、そして自意識と世界が密接に関わってしまう、これはまどかマギカでもやっていた。が、僕はそこに男女というものを求めたい。
ガンダムの枠じゃ多分もうできなくなってしまった。というより、ガンダムで行えるアプローチは元来そこでない。
完全に「少年少女」にフォーカスしきった作品。それと否応なしに世界と接続されるには?
その接続装置となるメカニクス。拡張存在としてのメカ。人間という存在の延長を表現すると、やはり人型だろう。
そして現代という文脈と照らし合わせる。
現代人の病。例えば、インターネット。
個々の発信が容易になったと同時に、その発信に必要以上に「悪く」反応する人たちがいる。なまじ顔が見えないばかりに、ひどく傷つける、恐ろしい言葉の羅列をする。それが発信者を傷つけ、殺す。
「相手がザクなら人間じゃないんだ」という感覚。その正当化。
その感覚は、ロボットアニメにおける「メカという暴力装置に乗った時に感じる全能感」に近しいと捉える。
だから、拡張身体としてのメカニクスという表現は、まだ意味を持つはずだ。
それを纏ってしまったものはどうなる?
上記に照らし合わせるならば、「傷つける存在」となる。
だが、同時に、世界には同じくらいの愛に溢れる言葉もインターネットに満ちている。とりわけ、再生数が途方もなく高いYouTubeの動画でもみてみると、そのコメント欄は、大抵、「いい意味で」盛り上がっている。面白いと思う動画を、さらに面白く感じようとコメントをし、顔の見えない誰かと賞賛し合い笑い合う。
これは、お祭り騒ぎに似ている。
つまり、「拡張身体」としてのメカニクスには、それを纏おうとも傷つけるだけの存在にはならない。誰かを良い想いにさせるために存在することもまた可能である。
メカニクス。それを扱うもの。
巨大な鉄塊とともにある少年少女。
この絵面だけでは、「現代」、「ここにいる」、という感覚はもはや味わわせてもらえず、完全なファンタジーとして捉えてしまうだろう。「ああ、ロボットのやつなんだ」という認識に変わる。
そうでないメカニクス。
それは、大きすぎないこと。重量がないこと。身近を思わせること。グラフィカルであること。
「メカニクス」という存在であるだけで、既にファンタジーとしての威力をもつのだ。
であれば、メカニクスの存在意義、存在性は、徹底的に「そこにあって違和感がないこと」を遵守しなければならない。
そして、一つファンタジーとして例外が許されるのは、そのメカニクスの「色彩」である。
むしろこれは、ファンタジーチックであればあるほど良い。
視覚表現に訴える。形部一平的アプローチ。
「巨大ロボットがいて乗り込んで戦うからロボットアニメなんだ」というイマジネーションの固定化は、ぶっ壊さねばならない。