はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2020/12/23

父性。

「母性本能」なんて言葉だとか、バブみだとか、ママァ~~だとか、
スラングでも、慣用的にも、「母」という言葉の方が用いられがちだ。
その概念は、体感しやすい。

母性。
親の腕に抱かれる感覚。受容される感覚。癒やし。ぬくもり。心地よさ。気持ちよさ。
安心。オキシトシン

母性本能。つまり、そのような感覚を味わわせて、相手を愛したい、愛させたいという衝動や欲求だと僕は思っている。「本能」なんて、もっと言語化しがたい、パッションのようなものだろうから、とりあえずの言語化である。


父性。

それは、「母性」への対義語なのか。

父親という存在。
「父親の背中をみて、俺は育った。」
「親父にはよくこっぴどく言われたもんだよ」

「母性」のアンチテーゼとしての父性をとらえると、上記のような言葉を思い浮かべる。
俺に従え。俺についてこい。

だが、こういう言い回しは、今は古めかしいだろう。
しかし、僕の中で、それとも社会的にか、「父性」という感覚が、更新されていないように思える。

何かを受け入れること、受容すること...つまるところ「母性」に回帰する感覚や、
それを支持する言説の数々は受け入れられるにも関わらず、

誰かのリーダーシップや行動、率いた結果の諸々...いわば「父性」に通ずる言説は、
こっぴどく言われがちだ。

父性は、否定されるものではない。
リーダーシップ、強烈なリーダーの元にいるというのは、これ以上ない安心感を覚えるものだ。
正しい正しくない以前に、やっていることに正当性を得られるからだ。
それは、自らの行動にひとまずの確信を与えてくれる。それがなければ行動ができないといってもいい。

組織の長というものは、この父性を与えられがちだ。

ちょっと連想したもの。そして、家族的「父性」と、組織的「リーダーシップ」の
二面性を併せ持つ性格のキャラクターについて論じてみる。


ガンダムF91の鉄仮面ことカロッゾ・ロナ。
直接の組織のトップという訳ではないが、それに近しい立ち位置であり、作戦本指揮官という意味では、実質的指導者である。
鉄の仮面は、人と人との感情のやり取りを行う上で、感情をみせないためのものだ。
冷徹に何かを言い放とうとも、それはある種の匿名性を帯びる。
「カロッゾの言葉」ではなく、「鉄仮面の言葉」となる。
冷徹である人というのは、恐い。だけど、それも一つ長所がある。
リーダーが泣いたり不安げにしていたら、部下が困る。
そのような感情の片鱗は、全てが鉄の仮面で覆われる。そうすると、何も見えなくなり、
「冷徹な人」というパーソナリティだけが認識される。

そうかと思えば、鉄の仮面をかぶっても隠しきれないほどの感情の昂ぶりをみせる。
実娘ベラに対してだ。
妻もそうだが、娘に対しても、その接し方も、お互いの意思疎通も上手くいかない。結果的に両者は対峙する。
「つくづく女とは御しがたいものだ」と漏らす。
これこそが父性の勘違いであるのかもしれない。
自分に力があり、その力は、異性をもコントロールできるものだと思い込んでいる。

そう考えると、権力や実行力云々と、「人を愛し、向き合い、コミュニケーションをすること」は、全くの別問題だと思える。


無限のリヴァイアス尾瀬イクミ。
物語の終盤、彼は、艦内の乱れた秩序、暴力と疑念が支配しカオスと化した環境を打開するため、究極の暴力=ヴァイタルガーダーを艦内に行使すると宣言したことで、「暴力による支配」を敢行した。
暴力による支配。同時に、究極的な暴力装置をも扱えるというのは、それだけの権限が尾瀬イクミに付与されたと言って良い。
そうして、最終盤の尾瀬イクミは、そのような見方だと「父性」を身につけた。
「人を力で縛り付けるやり方なんて、絶対に間違ってる」これが、昴治のイクミへの評だ。

僕も思う。これは間違っている。
しかし、他に方法があったか?
実行論と机上論の違い。速やかにその場を治める方法。

人の気持ち、立場を蔑ろにするということは当然承知で。それでも敢行されたのが、全体の統治が不可欠と考えたイクミの「暴力による支配」だ。

強制的にイクミに従う。そうすることで諍いを起こさせない。

ここには家族論は出てこないが、イクミのそれは「リーダーシップ」「権力」の一つの例だ。

 

尾瀬イクミ、鉄仮面、彼らの行動は、物語的に「過ち」として描かれる。
当然そうであるのだが、凄く嫌な言い方をすれば、同じ行動でも「過ち」でなくすることができたはずだ。
聞こえのいい言葉にするとか。コミュニケーションの面を重視するとか。
そうすることで、行動への不信感を募らせることは遅らせられる、もしくは低くすることができる。

しかし考えてみると、これの究極の形は、
歴史的大罪者とされる人物達なのではないか。
ヒトラーとか、麻原彰晃とかだ。ガンダムでみれば、CCAにおけるシャア・アズナブルだ。
ルルーシュとか。

社会にとっての必要悪となろうとも、彼らは、人を魅了した。
そこには、スポークスマンとしての才能があったからでもある。

では...「よい父性」の発揮には、カリスマ性が含まれるのか?
それも違うと思える。
カリスマや、よい父性、それが善であること、それが「上手くいっている」世界なんて、あるのか?

日本のリーダー、つまり、内閣総理大臣は、今、存在感がない。
それは、支持率の低さにもあるし、だから、僕らは関心を抱かない。

国の単位でそうなのだ。
全体で「父性」を忘れようとしている、もしくは、逃げようとしてしまっているのだろうか。むしろ、今という時代における、よい「父」の在り方を、誰も知らないのではないだろうか。
男性だって、コミュニケーションをしていい。
男は背中で語るもの...じゃない。
「お前は今、泣いていい」。

ナヨナヨしたって、その先に解決策を思いかべられるのなら、そのナヨナヨにも意味があったと思いたい。
でも、社会はいう。その時間があれば、○○ができたよね?それで実績は?

だけど、気持ちや感情というものを出すことを、もっと心地よく出せるような環境や、世界があればいいと思う。

とりとめがなくなってしまった。

結局、自分の中では、回答が出ない。
「上に立つと言うこと、父性を発揮するというのは、必要悪を抜きにして存在しえないのか」と。

これこそがナヨナヨなのかな。
めんどくせーっていわれる考えなのかな。