はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2020/12/29

ひさびさにネトフリで逆シャアを見返してみた(つっても年に数回は観てるしBlu-rayも持っているが)

 

 

すんごい“劇"がいいなぁ

 

しかもアニメでないと成立し得ないようなことをしている。

モビルスーツと宇宙空間、鉄に包まれた人工空間(コロニー内や艦船の内部)での居住感覚など

 

こういう作られた世界を表現して、それをも自然に描写するためにヒキのカットが多め

 

その空間の中でやりとりをする人間たち。

 

例えば、

『0Gのモビルスーツデッキ、メンテ中の少し騒々しい中での会話劇』

という中でのチェーンとクェスのやり取り。

こういうシーンは、クェスがチェーンに一方的な鬱憤をぶつけているという理解だけで問題ないが、感覚的に「こんな場所で喧嘩しちゃってる」なとわかる。それは次にクェスが無重力に不慣れゆえに体をバタつかせ、ロープを差し伸べるハサウェイの「クェス!入っちゃあ…!」でさらに通じる。

 

 

情報量多いのにすんなり表現しているのね。

ほんっっっっっとスマート。カッコいい。

そこに人間たち生きていてやり取りしてるんだなぁぁぁって思う。

 

逆襲のシャアは尺が抑えられているからこそ素晴らしい作品になったと思う。

会話劇のテンポ、シーンの切り替わりも実はほんとにすぐ変わる。行間シーンなんてほとんど存在しない。けど、これがテンポよくなってるし、このおかげでいい意味で一シーン一シーンへの情報量が増えている。

 

そしてこの作品は『説明で語らず、劇で語る(体現する)』。

どう言うことかというと、典型的なのはクェス。

このキャラクターをわかりやすく、悲劇的に描くとしたら、こんな台詞を言わせても良かっただろう。

 

例えば

「パパは愛人と寝て、ママはそんなの見過ごして!それで私は、こんな所まで一方的に連れてこられたの!もう嫌なの!」

くらいわかりやすい台詞があってもいいかもしれないが、作中でのクェスはそんな独白をしない、というより、「劇」でそれを表現している。

修行仲間と逃げ出すクェス、愛人と宇宙へ逃げる父アデナウアー、不倫相手と実の娘を堂々と同行させる父、「あの子があんなものに興味があるとは知らなかった」という親子の冷めた関係etc...

要するに、「クェスというキャラクターの不条理性とフラストレーションを、劇から読み取ってください。」ということだ。この事には少しばかり視聴者の能動的な読解を要求される。

 

クェスの話に脱線しちゃった。

 

 

ともかく、尺の配分やストーリー構造はさておき、「生身の人間の劇」をこれでもかと執念的に描いている作品である。

逆襲のシャアは、「ライバル同士のスーパースターモビルスーツで決着をつけるガンダムの一つのクライマックス的作品」という位置付けこそ一般的かもしれないが、この作品はそんなんじゃおさまらないんだぞ、と主張したい。

それは、「言語化し難い人同士の感情のやりとりの感覚」だ。

 

他作品sage,好きな作品ageはあまりしたくないんだけど、人間ドラマがテーマなのに会話劇諸々が「アチャー」とか、教科書みたいだな、なんて作品はいくらでもある。

そんなだったら、ギッチギチに詰め込められている集大成たる逆襲のシャアを観ろ、と言いたくもなる。