はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2021/01/08

最近自覚しつつある自分の嗜好:
人同士の肉体的・精神的なつながり
無機物と有機物の対比的描写
ヒトのむき出しになる悪らつな感情

●最近の消化物

・(漫画)先生のせんせい
とあるネット記事で、BLイマジネーションにおける「オメガバース」世界なるものがあると知った。子を宿すためのセックスは、男と女という区分けで行われるのでなく、射精も妊娠も誰でも可能であるという世界だ。そしてオオカミの生態を模して「アルファ」「ベータ」「オメガ」という区分けがその世界の人間には成されている。性別による区分けでなく、階級的区分けによって、根本的な「存在」の区分けがなされている。そしてそれは、男女という根本感覚とはまた別の、分別感覚と階級感覚を伴う「社会的な感覚」だ。
 BLどうのというより、このイマジネーションがとても面白い。というより、人間の営みが、例えば経済のグローバル化なんかが進んでいたり、モノの情報化・非物質化が成されていたり、時代は進んでいくと流動し、形骸化こそせずとも、「カテゴライズの破壊と創造と再生性」が成されていくと思っている。それは人間が「古来そうである」と無意識に感じていることにも当てはまると。その古来云々が、「男」と「女」という感覚だ。
人間は、セックスをもハックできると考えている。クローン技術や人工授精などが近いか。
これらは「セックスのハック」のイマジネーションに近い。
そしてもう一つ、SF的に好きなのは、もはやそのような社会様式が「当然のもの」として認知されている社会で描かれる、「人同士の関係・セックスの形」ということだ。
つまり、作為的・説明的に、登場人物が設定についてわざとらしく語ったりおおげさなリアクションをとる、というのではなく、既にその世界にいるのだから、当然のものとしてそれを授与して生きている。これを言語化するのは難しいのだが、作品世界として一歩イマジネーションを踏み込んでいる。
さて、そんな世界の作り込みを入念に考え込んでおきながら、そうして現代人感覚における「男性同士の恋愛=BL」を行う。
言い方を悪くすれば、BLというものを合法的に、当然の行為とするための一種の舞台装置がオメガバースである。

ガンダムオタク的に考える。ガンダムでは、巨大人型ロボットが宇宙でチャンバラをするために、スペースコロニー、地球連邦とジオン、ミノフスキー粒子、メカを「モビルスーツ
」という兵器群として設定した。このような背景があるからこそ、メカバトルがフィクションであるとわかりきっても、どこか現実感を感じさせる「嘘八百のリアリズム」を体感できる。
「先生のせんせい」も、男同士の恋愛を実現させるための「嘘八百のリアリズム」を用いているということだ。
織りなす物語はラブロマンス。しかし同時に、SFとしてもとても面白い考え方ができる作品だ。


・(小説)悪童日記
読了。戦争があり、子ども達は生き延びるしかなかった。
「ぼくら」はとてもたくましく生き延びる。肉親の血をすすってでも生き延びる。
戦争、占領が当たり前となる異常な状況下で、それさえも利用して。
そんな子ども達を、「悪童」と称する訳するセンスは巧みだと思う。
僕は、「ぼくら」を悪童とは思えなかった。
同作には、「ぼくら」に全裸でむち打ちをされることを望む変態将校がいる。
この気持ちは、ちょっと分かる。
そして同作には、現代人的感覚でいうニュートラルな価値観をもつ存在の人物は出てこない。
略奪、餓え、暴力、セックス...そういったものと隣り合わせの現実。
そしてそんな日常と現実を、巧みに利用し乗り越える「ぼくら」。
その様相は「悪童日記」の表題通り、日記という文体で淡々と、しかし描写は具に描かれる。

・(映画)パラサイト
めっちゃめちゃに面白かった。作品の起承転結、2つの上流・下流階級、そしてよりアンダーグラウンドな存在という対比に一ひねりを加えた構造、画面空間の「丘の上の豪邸と地下のボロ家」といういったりきたりの関係。画面やストーリーの「両極端」が絶えず描写されるお陰で、お話的な緩急が大きくなくとも、会話劇のひとつひとつで作品のリズムそのものの抑揚を感じ取ることができる。そして、それが物語のストーリーラインに沿って「転」の辺りで大きく揺れ動く。序盤から終盤へと、どんどん展開が衝撃的になっていく。
ものすごく精巧で素晴らしい作品だと思う。諸々の要素が複合的に絡み合いつつも、「持つモノ」「持たざるモノ」の二つに収斂されていく。
「パラサイト」というタイトルも本当に秀逸。というのも、僕はホラー映画かなんかだろと思って観たらまったく別の意味の、「社会的寄生虫」ともいうべき半ば蔑称のようなニュアンスでのタイトリングだとわかった。そういった「だまし的」、印象をつかむテクニックも巧いと思わされた。

・(映画)殺し屋1
セックスとバイオレンスが大好きだ。
「殺し屋1」は、『冴えない僕が悪いヤツらをぶっ倒す』、例えば王道的異世界転生モノやガンダムなんかにも近しいイマジネーションから物語構成が作られている気がする。
そういう意味でもこの作品は、オタク的に地味に親和性があり、入り込みやすい。
実写映画版の同作は、スプラッタムービーとしてどんなものかと気になって視聴した。
所々あからさまな特撮的グロが入って草を生やしてしまったが、舌の先っちょを意識を保ちながらナイフで切り裂いていく描写なんかはとっても精巧で、「うわあああ痛い痛い!!!画面から目ェ離したい...けど観たい...!!!」という本能的な嗜虐心や俗的感覚をすごく刺激される。
あとこのくらいの(2001年)年代の作品の映像感覚というのかな。そういうのがすごく好きで、脱バブリー的で、ミレニアム感というべきか。サイケデリックパンクというべきか。
リヴァイアスやrain、リリイ・シュシュのすべて、バトルロワイヤル、みたいな、ああいった作品群の映像感覚が本当に好き。そういう文脈というか流行みたいのがあったんだろうなぁ。