2021/01/18 誕生日 26歳
●誕生日のこと
誕生日について、色々な想いがある。
総じて思うのが、「面倒な自分」という事だ。
・祝ってくれて、嬉しい
会社の人たちの一部は、僕のことを祝ってくれた。総じて女性陣なんかは、祝ってくれがちだ。
あまりこのような物言いはしたくないが、女性は、そういう日を大切にする人が多い気がする。「○○の日」といったような。ぶっちゃけ、僕はそういうのが嫌いだ。
だけど、祝われること自体は嬉しい。その気持ちには、当然暖かみをかんじる。
・でも、返報性
何かにかこつけて「モノを送ったり送られたり」。誕生日に限った話でないが、こういうやりとりは、実はすんげーイヤだ。面倒だからである。
自分の出費が重なるだけでなく、そんなことをすると際限なくね?とか思ってしまう。極端な話、友達づきあいとか多ければ、週一とかでするようなペースじゃね?とか。
僕はそんなのノイローゼになる。だけど、ほんとに好ましい友達の為に考えるのは、確かに楽しい。それは分かるが、なんか、自分の時間を大事にしたいし、各々、もっと自分の時間を大事にしてほしいと思う。
というのは余計なおせっかいかもしれない。
そうすることが本当に好きな人は、世の中にいるのだろう。自分には到底真似できないので、本当に凄いと思う。
・祝っても、祝われない
自分が祝った友達でも、祝われないことがある。なら、「誕生日だから、祝ってほしい」と言えばいいのに。でもこう言うのは恥ずかしい。言ったら、「そんなに構ってちゃんなのかよ」って思われるのが恐い。
だから、なにも言わない。でも、返報性のないことに、勝手にどこかモヤモヤしたりする。そこで、ドライになろうと決めた。何もなければ、自分から次は何もしないのだ。
そうすれば、悩むことはない。仲良くなるということは、色々な形があるけれど、誕生日だからと、そういうやり取りの有無だけで友達じゃないとかどうとか、そう悩む自分でもない。仲は良い。だけど贈り物とかし合うとか、ほとんどないような関係でもいい。
友達は色々な形態がある。だから、自分で祝って、そして勝手に、自分は祝われないことに落ち込んだりとか、そういうのは割り切ろう。そのことだけで冷たいなとか、してくれなかった、とかいう判断をする自分にはなりたくない。自分目線のお話でもある。
実は、誕生日に関してはイヤなイメージの方が強い。
それは、「年を重ねるのがイヤだ」という事ではない。
むしろ、年を重ねることにおいては、「年齢が増すならそれに見合うような人間になれるよう精進してやる」という前向きなイメージで捉えられている。
そういう事でなく、フラッシュバックがある。
・トラウマ1
同じ誕生日の日、盛大にクラスで祝われるクラスメイト、内々に祝われる自分。
高校生のときだ。同じ誕生日の者がいた。その人はクラスで人気者的ポジションだった。
1月18日。黒板にその人の名前や、お祝い仕様に盛大にデコって、その日はクラスの陽キャグループを中心に、というか、その勢いでクラス全体までノらされるかのような、「ハッピーバースデイトゥーユー」の歌を歌った。
僕も歌った。同調圧力的に、歌った。
トラウマの一つだ。
光と影の差を見せつけられるかのようだった。
同じ誕生日にしても、友達が多いか少ないかの違いで、こうも扱いが別れるのかと。
「この日に生まれてきたあの人にはすごい価値があるけど、お前(僕)はない」とでも、神の視点からでも言われているような気分だった。
僕は、おそらく自己顕示欲は人一倍あるのだろう。
「僕のことを観て、褒めて、わかってほしい」そんな気持ちが、今では割り切れているが、少し前まで止まらなかった。
だから、本当に惨めだった。
でも、夜には家族に祝われる。これだけは、純粋に嬉しいことである。
ケーキはおいしい。心からの笑顔にはなれなかった(何様って感じだけどね)けど、祝われること、家族が産んでくれたこと、それは本当に感謝している。
・トラウマ2
Twitter絡み。僕はポケモンプレイヤーだった。
某ポケモンWCS優勝者と僕の誕生日は同じである。
これもひどくトラウマであり、その日にTwitterを覗くと格差を見せつけられ血反吐を履きそうになる。
誕生日のツイート、風船、数え切れないいいね、リツイート、リプ...
そして、某有名スプラトゥーンプレイヤーも、僕と同じ誕生日だった。
当然これもトラウマものである。
一人かぶっているだけでも大変なのに。
なんでこんなに突きつけられるんだよ...と、
とてつっっっっっもなくイヤな気分になった。
ぶっちゃけ、トラウマ2の方が思い出したくない。
僕の誕生日には、こんなモヤモヤがあった。
後ろ向ききわまりないが、更に言えば1月18日という日は、
阪神淡路大震災の日であるとか、センター試験の日になりがちとか、そういうのもある。
僕に言えば、この日は誕生日であり、同時に「試練の日」であるのかもしれない。
ギャップに耐えられるか。
当然、これからも毎年一度、誕生日は訪れる。
心の底から、このわだかまりが溶けるようになるまで、よい心を育てようと思えた。
そして、こんな風にみじめになるのにも、簡単な理由がある。
「じゃあ、あなたは祝われるために、なにかしたの?できたの?」
というのも、事実の一つである。
そして後は、「ムリに傷つきにいく行動をとらない」。自衛手段の一つかもしれない。
ささやかでいいと思う。
これからの誕生日と向き合うために。
「やりたい事に対して真摯に向き合う、楽しむ。それはもう心底に。そのために頭を使う」
「人のことを変に自分視点だけで考えすぎない されなかったんなら、しなくていい」
これでいこう。
皆、時間がなくなっていくのだから。