はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2021/01/22

テラスハウス2013~を観つづけている。
そろそろ終盤である。

観ていて考えた。
人との距離感。好き合うということ。

僕にとっては考えもしない人となりの人。
「言いたいことだけを言って、主張をとにかくする人間、でも人には興味をもっている人」なんかを見もした。

遼子ちゃんという人が、他の女子メンバー2人に「どうしてそうなの?言ってくれなきゃ伝わらないよ」と問われる場面があった。

それでも答えられない遼子。


大変なんだ。

そんなことをされると、凄く凄く、自分が悪い人間に思えてくる。
しかも、2体1という場面になる。責められている気分になる。
それはとても辛いと思った。
ましてや、これは共同生活であるし。このように、僕のように、視聴者の目に留まる、オンエアされる。
何重という苦しみなんだ。
そんなの、考えただけで吐き気がしそうだ。

ダレかが悲しんだり苦しんだりしたとき、必要なことって、
「あなたの為だから、こうした方がいいよ?こうしなさい?」
と、言うことだけが全てなのかな。

嫌な話、僕は、望んでもいないのに何かを言われることが、心底イヤだ。
「お前に何が分かる。お前なんかに言われたくない、お前はそんなに完璧人間なのか」って。今まで、そういう場面があったら言葉を濁してきたけど、その時の僕の心中は、そんなだ。

だから僕は、僕がこんなだから、苦しい思いをしている人に、何も言いたくない。
誰かの気持ちは、その誰かのものでしかない。
だから、その気持ちに、最終的に向き合えるのは、そして向き合って動けるのは、本人しかいない。

そういう人がいたら、その人が楽になることを願う。
苦しんだり、悲しんだり、そういう気持ちを味わったことも内包できて、それで笑えるようになることを。
気持ちというものは、一人のものでしかない。
でも、心底からの気持ちは、あふれ出るくらいのエネルギーを持つことがある。
そうして溢れたときに、その気持ちは誰かに伝播する。だから笑い合える。悲しむという気持ちを共有できる。
でも、自覚や確信のもてないときのそれは、その気持ちが何であるか、わかろうとするのに時間がかかる。だから、そんなときに、自分以外から何か言われるのは、ノイズが混じって仕方がない。


悲しみ、苦しむ人がいたとしたら。
僕は、当人が悲しみと苦しみに、心底向き合えるよう、手助けは全力でしたいと思った。
もし、そうして、当人から声をかけられることがあれば、そのときは心底からの想いを以て応じようと思った。

が、これには例外がある。

①物理的な苦しみ...要するにケガのとき。これは文字通りの応急処置だ。こればかりはしのごの言える状況じゃない。
②自殺未遂...包丁を隠すとか。薬の多量服用をとっさに無理矢理とめるとか。

...何を書いているのだろうな。

そして、テラスハウス上で「わだかまりを解く」、「相互開示を行う」ことのコミュニケーション方法が主に対面での口頭のやりとりでしかなされないことも大変だと思った。
各々が打ち解けたり、言い合ったり、「ラクになる」方法って色々ある。


自分が近いと感じたからか、番組上では遼子にかなり感情移入をしてしまった。


そして後は、本音で語り合うことだけがコミュニケーションなのかな、仲良くなることなのかな、とも思った。
打ち解けるというか、言いたいことを言い合えるというのは、確かに良いけれど。

思っていることすべてを言い合えなかったって、互いを大事に思うことはできる。
笑い合うことだってできる。
ムリに歩み寄ろうとする必要もないんでないかと思った。

自分でいうのも何だけど、僕はおそらく、「繊細な人間」という部類なんだろうな。
の割に、例えば部屋で少し汚れた部分はそのままにしてしまうことがあったり、会社で、たまに引き出しをほんの少し空けっぱで出て行ってしまい、それを他の人がしまったり、外出するときに何か持ち出し忘れてしまっていたり。
会社じゃそれっぽく振る舞ってばかりいるけど、ほんとは全然仕事のことなんか大事に思っていなかったりする。気持ちが上の空にも関わらず、声だけはいっちょ前に出てしまったりする。

繊細で自分勝手?

自分はどうだとか、考えるのはよそう。
自分で自分のことなんか、分かるわけないよな...。