はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2021/02/07

書くことねーや…………

 

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たたかえ!マッチングアプリとかいうゲームを見かけたのでちょい遊んでみた。

すんげーシニカル満載で草

 

ただ心にどこか引っかかる…

 

というより、このゲームの問題というかマッチングアプリというもの根本の問題な気がする。

何かというたらそのシステムの仕様上「人をモノであるかのように思ってしまう」ことだ。

 

要は気にいる/気に入らないでカンタンにスワイプしてはい次!はい次!とできてしまうのだ。

自分というものの主観性が抜け落ちて、単純に厳しい目だけでジャッジする歪な審美眼だけができあがる。

それは、「人をみる」という行為なのか、疑問に思えてきた。

 

僕にはそれが耐えられなかった。

なので、辞めた。

 

ガンダムの家族論』にて、富野監督が述べていたが、人と人とのつながりは、選択可能なものというより、擬似家族的なもの、繋がらざるを得なくして繋がってしまうものだ、という主張がある。

人をどのように思うかというのは、長い時間一緒にいなければ、コミュニケーションをとってみなければわからない。長い時間、いてさえもわからないかもしれない。

 

だから、他者という存在について、好ましいかどうかを考える時、

「あの人は○○しているから嫌い、○○な存在だから好き」、といった価値判断は、人をタグ付けして考えるというか、記号化して考えすぎていて、そのような考え方は恐ろしいと思える。

要は、他者という存在を、フィクションのキャラクターとして捉えてはいやしないかという事だ。

自分が接する他者は、「○○のような人」「○○なヤツ」なんかでなく、紛れもない「その人」そのものだ。

 

生身の身体同士のやりとりの、本来的な気持ちよさと痛さというものを、忘れてしまっているのではないか、もしくは、臆病になりすぎているのではないか、と思う。

これは、僕の自戒の念そのものでもあるが。

 

ただし、その人を第一にみたときに「疑ってかかる」ことはなんらおかしいことじゃない。

だって、生物には防衛本能があり、排他心があるのだから。

 

ただ、その排他心を、他者を攻撃するイマジネーションに使いすぎてばかりいては、いつまでも自分という主観の抜け落ちた、俯瞰的「なだけ」の存在となってしまうのでないかと思う。

プレイヤーなのに、プレイヤーでないとどこか思っている。実感を持たない。とか。

 

 

書く事ねーとかいって…なんか書いてたな。