はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

最近みたものなどを書きなぐり

 

●君の膵臓を食べたい(アニメ映画/2019)

これすんごいよかった。金曜ロードショーで放映されていたもの...の録画をみた。

 主人公とヒロインの対話。この作品は対話の映画のように思わされた。主人公・春樹とヒロイン咲良の死生観、倫理観、温度感、それぞれの価値観をぶつけ合い、理解しあっていく。おそらく、メインに「対話」を据えているせいか、アニメ映画としては劇的なアクションや、過度な急展開が迎えて状況が一変するなどということはない。せいぜい最初に出会いがある程度だが、作品のロジックでいわせれば、これは「偶然の出会い」などでは決してないと。咲良が描いた「共病文庫」なる手記を拾い、中身をすこし除く春樹くん。彼が誰よりも早くそれに気づき、内容を見、出会いへと通じたのは、結局本人にそれを感じ取るアンテナがしっかりあったのだと。

 この作品は「日常のなかのささやかな能動の積み重ね」の描写がとても丁寧だと思わされた。手の届く範囲で、日常の中で、非日常に近づくかもしれない、それでも行動によって変えられそうな...日常をハックすることなのかもしれない。

 咲良の日常には、学校内には、自分と異質の存在に思えた春樹くんがいた。そんな彼と知り合い、隣町へと電車で訪ねる。

自分が死ぬからと分かったからって、日常に劇的な退廃や救いを求めるでもなく、自らの手の届く範囲で、接したい人と接して、行きたい場所に行って、その日常をかみしめる。

 ボーイミーツガールを「都合の良い」と捉えるかもしれない受け手へのカウンターは、ヒロインと主人子の能動性の説明と、主人公のヒロインの喪失の物語とすることで落ち度を持たせている。

 主人公・春樹くんの最終的な着地点は、自分を嫌悪していた咲良の親友・恭子と努力の末友人になれたということだ。ちなみに髪型もちょい変えている。

「きみとぼく」の関係性で閉じて、そこで甘い思いをして終えるというよりは、「ぼく」が「きみ」を通じて、「きみの外」へと少しずつ歩みを広げられるような、視野の広がりを明示したところで終える。

 だからこれは、恋愛映画ではないのだと思う。自意識を俯瞰し、他者と折り合いをつけられるよう対話ができるようになるまでの物語で、その一歩が示されたというところまでを描くお話なのだと思う。そもそも恋愛映画ってなんだ(哲学)。

 この映画は、ウソがあまりないのだと思う。

 個人的にちょっとうーん、、てなるところはある。イラストレーション的美意識の高さ故に店内だとか建物の内部をフカンで劇させるところがちょい多めに思えるところとか(絵うまいからやりたくなるんだろうなぁ)。

 春樹くんと咲良さんが「きみに会うために生まれてきたのかもしれない」って言っちゃうところとか。(ふたりとも高校生だからまあいいと思うけど)

 そして春樹も最後まで名前明かされないのかと思ったら明かされるというところ。主人公の「ぼく」を匿名化させることで「ぼく」=あなたになるかと思いきや、「ぼく」=「春樹くん」という劇中の人物となってしまった。

 咲良と恭子の距離感のべったり具合...はまあ僕個人の距離感の問題か。

 あとは咲良がこと切れるタイミングとか。

と、ちょいちょい気になるところはあるが...ほんとにいいなぁと思った。

というより僕の人間観にすごく近しくて気持ちよかった。

 

●アグレッシブ烈子(2018~2020)

 ネトフリで配信してるやつ。これほんとおもろい。

テンポよしオチよしキャラクターの個性もいい具合にばらけていてわかりやすく描き分けがしっかりされている。1話15分という尺もあってなかなか見やすい。

アニメカービィのブラックさが好きな人とか楽しめそうな感じ。

そんなこんなでシーズン3の最終話までするっと観てしまった。

が、これに関しては実に痛烈な批判を見つけたのでちょっと引用させていただく。↓

 

https://sakuhindb.com/janime/Aggretsuko/

東京丸の内で「OL」をしているちょっと弱気で真面目な烈子25歳の日常OL生活をサンリオ協賛でアニメ化
キャラクターグッズも展開されており、ネットフリックスで全世界配信されている

監督は『やわらか戦車』のラレコ?なんだけどどうも女性向け情報番組『王様のブランチ』内でコーナーアニメとして
放映されていた作品の焼き直しらしい
なのでラレコ氏が最初から最後まで制作に関わっていたわけでもないようだ

まあ初見は「いまだに何やってんの?」といういささか呆れた感想
もちろん女性向けアニメだし、そういうアニメにオッサンの私がモノ申すのが変なのは百も承知だが、
いったいいつの時代の価値観でアニメ作ってんの?という疑問が湧き上がって仕方がなかった

 


【こんな職場丸の内にまだあるのか?】
先日も財務省という「ノー〇〇しゃぶしゃぶ」という伝統芸能がある「動物村」で磨き抜かれ「育成」された結果
あろうことか女性記者に「おっ〇〇触っていい?」とのたまっていた某官僚が大手マスコミに捕獲されたばかりだが
捕獲して問題にしているのがmetoo委員会のような先鋭的な団体ではないことに時代を感じる
確かにまだまだ男性上位社会だけど、世の中パワハラ、セクハラに視線が厳しくなっている
このアニメに出てくるトン部長のようなオッサンはとうの昔に「危険人物」認定されて人事から捕獲され、首にされてるだろう
そもそも職場でゴルフの素振りを業務中にやるようなオッサンはもう丸の内には生息していないって
昨今厳しいのにそんな余裕ないだろ・・・


若い女性社員の育成もやらず、茶を入れさせ、机を拭かせって、それいつの時代?
茶入れは自動販売機導入で丸の内などではとっくになくなっているし、机の拭き掃除等は清掃業者に業務委託してるだろ
それで山積み書類で仕事押し付けっていつの時代?
とっくにペーパーレスでしょ、年間ん千万も紙代払う余裕のある会社は都市部にはもうないって


キャラは動物で極端に擬人化してかわいくデフォルメしているのに内容は中途半端にリアル
それもひと昔以上前のリアル描写で面喰う
笑うに笑えないし、古臭すぎてびっくりする

 


【そもそも「OL」ってもう丸の内では死語じゃないの?】
OLってオフィスレディの略だよね?
経理でも技術でも管理でもない、特定の職業を示す言い方ではない
Wikiだと「補助的業務を担当する一般職の若い女性社員」を指すとされることが多いとある
昭和、平成の初めぐらいはそういう「補助的業務」に携わる若い女性社員の需要はまだあった
でもIT化が進んだ現在、そういう補助的業務は消えつつある
アメリカでは弁護士でさえIT化で末端の業務が消えつつあり、ホワイトカラーの雇用ピンチが叫ばれている
烈子が主人公として登場する2018年の高度に洗練された東京丸の内では
そうした補助業務は切り出しで安いコストで外部に業務委託されるか、派遣のような臨時雇用者に回されるというシビアな状況になっている
のほほんと「わたしOLです」などとのたまう若い女性は丸の内のような生き残り競争が激しい地帯では皆無だ
いたとしてもよほどのお花畑思考の人だろう
自分の周りの女性は若いうちから烈子のように経理なら経理で経験を積み、資格等を取って将来に備えている
みんな真剣に将来を考えて真摯に仕事に向き合っている
烈子のように「仕事をやらされている感」もないし、モラトリアム人間が好きそうな「OL」という言葉にも逃げていない


自分の職場にも烈子のように経理畑の女性社員がいるが、国際資格を取って
がむしゃらに働くしか能がない私のようなオッサンより遥かに高給取りだ
「OL」なんて呼んだらぶっとばされそうだ

そしてそういうひと昔前なら「キャリアウーマン」とか言われて男性社員に敬遠されていたような女性
このアニメで言うと鷲尾先輩かな、
アニメではミエ張ってブランド物纏って自己実現のために「華麗??」に仕事をしている女性として描かれていたけど
昔はいざ知らず自分の周りにはもうほとんど存在しない


雇用の流動化、ホワイトカラーの需要減少に伴い、女性もリスク分散の為に家計を担う働き手にならざるを得ないシビアな社会事情がある
先述の経理の女性だって2人の子持ちだし、子供を大学まで通わせたいと言って必死で働いている
旦那は技術屋だけど、昨今の事情じゃいつリストラされるかわからない
髪ひっ詰めて、生活感バリバリなんだけどなあ
ブランド物着てハイヒールで廊下を闊歩している描写があったけど、そんな余裕ないってw
学生ローンだってまだ払っていると言ってたし、子供にこの学生ローン地獄を味わせたくないと言っている

自分の部署にいる若い独身女性だってもっと真剣に働いている
技術や営業、コンサル、経理、管理者として将来独り立ちできるよう経験を積めるよう前向きに働いているし、
こちらも容赦しない


「OL」というひとくくりの言葉やキャラクター設定で働くほぼすべての若い女性の「共感」が得られた時代はだいぶ昔のこと
多様化がさらに進み、生き方だけでなく、女性も専門性を持って社会で独り立ちせざるを得ない2018年という今、
必要とされていたのは多様化する個々の多すぎる選択肢の前にたたずみ、
どう生きていけばよいか悩む女性達の背中をそっと押す物語だったのではないか

 

1980年代のように一方通行のマスメディアによって全員が同じ音楽を聴き、テレビを見て同じようなことを考えていた時代ではないのだ
ただ、マス(多くの人)にウケることが求められる商業作品が、多様化する価値観や社会の前に作りにくくなったのは分かる
昨今映画でも80年代ブームが起きているが、みんなが同じモノを見ていた時代に対するノスタルジーのようなものが作り手にはあるのだろう
だからと言って、ホコリを被った昔の価値観や設定を引っ張り出してアニメにするのは何か違う気がする

 

今を生きる筈の現在25歳という烈子の年齢設定は何だったのか
まさか、自分を今でも25歳と夢想し、青春の残滓を追い求め、アニメを見ながらサンリオのキャラクターグッズを握りしめて
共感している40,50歳の一人の成熟した「女性」になれない「元女の子」がターゲットではないだろう
だとしたら背筋が寒くなる光景だ

 

これは本当に鋭い切り口だと思った。

まがりなりにも現代ドラマ的側面をもつアグレッシブ烈子。現代ドラマとして描くならば、その土台把握が稚拙なのではないかというものだ。

 作品内の設定世界への疑問をさておきとするならば、キャラクター同士の掛け合いやディフォルメによるコミカル性、テンポの良いギャグなどは純粋に楽しいかなぁという印象

 

アイネクライネナハトムジーク(邦画 2019)

 伊坂幸太郎原作のやつ。ネトフリでみた。視聴した感想...うんいいね!

なんか...感想が沸かない...伊佐幸太郎先生の作品って会話劇独特だと思う。なんか絶妙に台詞って感じがする。ぶっちゃけアニメの方が向いてるのでは?と思った。

 

●岬のマヨイガ(アニメ映画 2021)

 9月10日に観に行った。地域密着コミュニティに根を下ろしていくヒーリング映画と思いきや徐々に怪異と戦うファンタジズムが色濃くなっていき最終的に一度ひと段落というような段階で終幕。作画面でいうと料理のビジュアルへの拘りがすごくて、きゅうりの料理でも様々な調理が施された品々がしっかり描かれていた。あとはキャラデザのやわらかな線がけっこう好み。

 あとはひよりちゃんという8歳の女の子のキャラクター造形が絶妙だと思った。交通事故で両親を亡くし、自分を引き取ってくれた叔父叔母夫婦も震災によって他界。そして行き場をなくしたショックから失声症に陥っている...というのが前提の設定で、キワおばあちゃんに引き取られてからは、おばあちゃんとゆい、の自分を気にかけてくれる優しさを素直に受け取って(声は出せないものの)はっきりとした意思表示と、自らの関心ごとへのアンテナを閉ざすこともしないままで自分をしっかりもっている。

 この塩梅は絶妙だと思う。まだ10にも満たない年齢で、自らの周囲に起きた不幸の連続を、現実としてどんな事態なのかを把握しきれる知識というか、想像力は、持ち合わせられないのではないだろうか。不幸であることは分かるが、どれだけの不幸は自分事ながら理解しきれないというか。とはいえ、ストレスそのものは降りかかるからこそ...声が出ない。声だけは、どうにも出せない。(作中では、あるタイミングで変化が訪れるのだけど)

 お話の雰囲気としてはシンエヴァの第三村パートからポケットモンスターサンムーンのクライマックスって感じの印象を受けた(自分の引き出しの中での印象)。

 どこか素朴な雰囲気のお話って感じかなぁ。なんかファンタジー表現のぶっこみ方にうーんとはなったけど、土着賛歌のような精神はおぼえておきたいと思った。やさしいお話だと思う。

 

 

 

 

~視聴途中~

 

 

メイドインアビス(アニメ 2017)

 6話くらいまでみた。絵うますぎ。正直言うとなんか説明的なお話の運び方だなぁとはちょっと思っちゃう。けどほんっと1から全部世界観つくりあげているし熱量がすごい。そりゃ好きな人は好きになるわなって思う。

 

結婚できない男(TVドラマ 2006)

 ネトフリで最近きた?っぽいからちょいちょい観てる。つってもまだ2話までだけど。2006年、今から15年前ということを考慮しても同作のヒューマニズムに正味同調できない。「あの人はこういう感じだからこういう性格だよね」というレッテル貼りをしたうえで会話を進めるというか。固定観念のうえでの会話みたいなのがきつい。

 まあそもそも「結婚できない男」というタイトルからして”社会的まなざし”を意識したタイトルで、物議を醸すかもしれない名前なんだから挑戦的なタイトルではあったのだと思う。まあまだ二話目だしなんともいえないけど。なんか倫理観が異次元すぎて「僕」の入り込む余地がいっさい無い作品。それにしても阿部寛かっこいい..................♡

 

●殺戮の天使(アニメ 2018)

 これはやばい。なんかめっちゃドストライク。レイチェルとザックのコンビすんごいいい。掛け合いがたまらない。ふたりの演技もたまんない。青年×少女のカップリングだいすき。性癖にドストライクであります。Lieatとかもそうだったけど青年少女たまんない。ザックの中の人の岡本信彦さん、クレイジー役めっちゃいい。Gジェネでフォンスパーク知った時のあげゃ笑い。あれほんと大好きだった。普通にフォンの人となりも大好きだし。閉じられた世界でこれからどうなっていくのかという条件が段々と明らかになって開放されていく感じもすんげーすき。常に死が隣にあるような世界で、それでも死というものにどこか受容的な雰囲気のレイチェルとザックという組み合わせ。この退廃感がほんとうに...たまんねぇ。インディーズゲームのこういうアングラ感だいすき。てかなんで手伸ばそうとせんかったんだろ...

 

 

 

●しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール(幻冬舎新書、2009 香山リカ

ふつうにがんばって、しがみつかずにこだわらずに自分のペースで生きていけば、誰でもそれなりに幸せを感じながら人生を送れる。それで十分、というよりそれ以外の何が必要であろうか。

 すごくいい言葉だと思った。人は、たしかに人をみるものだけど、人のことを見すぎたり、あれやこれやと見すぎて、自分のものさしで、絶対的にどうだと押し付けて、その人の何かを傷つけることをも気が付かずに突き付けつづける、その残酷さを感じることがある。それはきっと、自分の中にある不安だとか恐怖だとか、そういうものが根っこにあって、そんなものをあらわにするよりはと、誰かに押し付けたり、隠そうとしたりする。でも、そんなにいたずらに、人の心をもどうにかしていいものなのだろうか、というより、そもそも、その不安や恐怖も、そんなに絶対視しなきゃいけないものなのだろうか、と思う。

 少しでもじっとしてみれば、ほんとうに身近に、相対的にでなく、絶対的に、「よさ」をまとっているものは身近にあるのだと思う。それは何でもいいし、自然物でも人工物でもいいと思う。僕は今、Bluetoothのキーボードで文字を入力しているが、それが入力されるプロセスの面白さ、ロジック性でもいいし、こうして僕が文章を記述して、ログとして残ることの歴史性でもいいかもしれない。そういった物事の一つ一つに、人の営みが絶対的に残してきた価値と、自分の身体とのつながりがあるのだと思う。

 目の前にいやなことがあるのだとすれば、そういった自分の営みと、そのいやなことのつながりを、つなげられるように考えていけば、日常の小さな一つの気づきや、行動を、ほんの少し変えて、変えるとかでなく、しのげるようにでもなっていけるのだと思う。思いたい。

 そんなにまなざさなくったっていいじゃないか...やっていけるのなら、それだけで素晴らしいじゃないか...と、自分の心の中で落ち着ける余裕が、これからもどこかでほしいと願った。で、自分もどこかでまなざしているのかもしれない、という心の自助努力は、窮屈にならない範囲で心がけておけばいいのだと思う。

文章メッチャメチャだな。

 

 

というか全体的に、自分がふれたものを羅列して書こうとか思ったから結局書きなぐりばっかになっちまった。すんません。これは自分の心への謝罪でもあるかもしれない。

すんません。父にありがとう母にさようならそしてすべてのチルドレンにすんません。おもんねぇ...。

あと友達にすすめられてインターステラーインセプションをみた。クリストファーノーラン。これは映像的技巧がエグい。お話のトリッキーさもエグい。本当に映画としての映画って感じ。素晴らしかった。