「アイアン・ジャイアント」みた
またもや、Amazonプライムにて。
ここ最近、映像作品観た感想を書き綴るブログかつ、Amazonプライムをひたすらアゲる風潮になっている…。
感想。スゲェ良かった。めちゃ泣ける。
一番思うこと。善の心を持つロボット…鉄の巨人は、とても愛おしい。ついでに萌える。
少年と巨人…というのはとても絵として映えるもので、観ていて何故だかどこか懐かしい気持ちを思い出させる。
そしてまた、この作品に登場する「悪い大人」即ち、政府の要人、マンズリーや軍人達のジャイアントに対するリアクションも、今の時代からすれば「そんな短絡的な…」とは思わないでもない。
が、作品設定として1957年、つまりソ連がスプートニクを宇宙への打ち出しに成功したことが序盤に語られている。
ソ連と真っ向から対立していたアメリカは、有事と思しき事態に一番ナイーブになっていることは想像に難くない。
そのため、このような時代背景で、ましてやアメリカという国で事が起きてしまったのならば、緊張のピークで再び原子爆弾発射のスイッチを押してしまう…という映像上のシナリオに達することも、妙に納得出来てしまう。
(それでも、やっぱり人類史の悪夢として刻まれるべき原子爆弾が爆発する映像を見るのは、フィクションとはいえとても胸が痛んだ…。)
スプートニクという未知の恐怖に、鉄の巨人という更なる未知のものに出くわしてしまった。一市民としてこの事実に出くわすならまだしも、国政に携わる一官僚としてならば、これらの事実の受け止め方はまた異なってくるだろう。
だからこそマンズリーさんは一見分かりやすい「エラい人で、権力を行使して強引に主人公達の邪魔をする人」でありながらも、この異常事態においては国のために行動を行なった一公人としての責務を果たそうとしたことは理解すべきだろうと思った。
が、作中のマンズリーさんの扱いは心理描写などがなく、単にジャイアント排除のために動いていた、ましてや自らに危機が差し迫った際は車で自分だけ逃げようとしていたし、そこまで考察すべき人物として描かれていたかはちょっと疑問だけど。
・観ていて辛かったシーン
ジャイアントに対し軍隊が戦車やライフル、機銃、戦闘機などで攻撃を仕掛けるシーン。
僕の単なる持論だけど、人間とは賢くあるべきだと思っている。
未知なものとのファーストコンタクトにおいて、賢くあるべきなのはどのような行動なのか。
おそらく、「敵対する未知の恐怖だろうから即座攻撃する」ことではないだろう。
たとえ動物でも滅多にそのような自体には陥らないというのに。
だからこそ観ていて辛かった。
ジャイアント側は人間に対し、自らが攻撃を受けようとも、彼らに友好の意を示していた。
つまり、未知なものに対し攻撃ではない、「賢くある」をとっていたのは、人間の有する兵器群以上の力を持ち、ましてや人間でもないジャイアントの方だった。
人間らしい心を持っていたのはこの時、どちらだったんだろう。
何よりこの作品、1999年公開の映画のだというんだからとても驚いた。
ジャイアントが3DCGながら、2Dらしいタッチで、画面に溶け込んでいて絵的な違和感が全くない。
しかも大地を踏みしめるときの重量感の描写や、空を飛び回るときのスピード感など、動きのメリハリもついている。
あとは攻撃モードへ変形するときや、パーツパーツを接合する際の細かなアタッチメントがせり出し結合する際のアニメーション等、どれも凝っていて、動きも自然。めちゃめちゃ驚いた。
うーーむやはり、「ヒト」と、人ならざる存在でありながらも人間に近しい心を持つ「非ヒト」が関わって紡ぐお話はとても面白い。
対比構造によって改めて自分たち人間は一体どんな存在なのか、を考えさせられる。
そのことによって人間の愚かしさ、素晴らしさ、等たくさんの要素について実感させられる。
なんかもっとジャイアントの萌え要素について書きたいんだけど、なんだか文章がまとまらないのでやめ。いやでもほんとこの作品のジャイアントは愛おしい。