『斎藤さん』の話 2
幾人か、女子と個人的に連絡を取り合うことにした。
それには、相思相愛にも近い、情があってそうするのだ。
でも、やっぱり思う。
そういうのは、さみしいのだ。
コミュニケーションのためのコミュニケーションでしか、ないのだ。
そして、男には、時間に価値性や、やることへの意義なんかを、考えてしまう、
意味性を追求してしまう情けない性がある。
それは、たとえば、会話の果てに、セックスを求めることもそうだ。
女性といて、気持ちよくなること。
男の場合、そうであろう。
しかし、僕はどうやら、その欲求とはちょっと、違うところにいるらしい。
いや、そのような欲求は、ないことはないのだが、それ以上に、つながりそのものを求めている。
しかしこれがたちが悪い。
「つながりそのものを求める」という、実に具体性のない、目的性の薄い動機は、
自らの行動の方針をブレさせる。
僕には、ささやかな居心地のよさだけでも十分とすら思える。
しかし、しかし、ささやかすぎると?何も得られないのではという虚無感。
そういうとりとめのなさと、終わりの見えなさが、僕を包むかのように縛る。
そしてそれが、僕を疲れさせる。
しかし、自分でそうなりにいったのだ。
自分で、つながりを求めたから。
そして他者から好意を見せられても、自分でそれを否定したくなる。こんなことは空しい、と。
かといって、やはり僕は本能をそのままむき出しにして異性と会話をすることはできないし、そうしようという欲求もない。
だから、アプリ上でよくみるような、淫語を連発したり、名前につけたりするような同性の輩どもなどは、唾棄したい気分にもなる。
「僕とお前たちは違う。お前たちは、欲求そのままに動くケダモノだ。僕は違う。僕には理性がある。身につけた知性がある」
このような気持ちだ。
しかし、動く土俵は同じ_____そう考えると、僕もケモノ達のなかの一匹にすぎない。
そして、その事実に絶望をする。
では、そこから脱却する方法は、ナニか?
答えはとても簡単だ。
「このアプリを辞めるということ」。
だから、僕は、このアプリを消去した。
ナニにも、ならない。
僕にとって、齋藤さんというアプリの感想である。
『何にも、ならない。』
自分が男であるという事実には、少し疲れる。
しかしそのことに、楽しみや安堵をも感じる。
自身の性別を受け入れられない時がたまにあるが、今、そういう気分だ。
そして、僕が男性、女性という性別観を考えようとするとき、
自身の頭や、体験、体感でもってでしかそれを考えられていないという実感がある。
つまりは、それを脱却するためには________
『本を読め』、
『そういう考え方の人の話を聴け』
ということだ!!!!!!!!!!!
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しかして、僕は、どこか惹かれる人と、細やかだが素直そのままに話をする人と、
話をすることができている。それは、今もそうしている。
そのことは、心地よいものだと感じる。