家族旅行なうw
北海道・洞爺湖付近に来ています。
年始は仕事量は控えめであるため、とても羽を伸ばして休めている。
我が家では毎年はじめにホテルで泊まることが恒例行事になっている。
これがいつまで続くかは分からないが、この団欒が僕にとっての安らぎである。
しかし、お互いに、ともすれば親離れ・子離れができていないのかも…と、少し不安にもなるのだ。
何せ、僕はもう24手前である。その年にもなって、家庭を持つならまだしも、子という立場に甘え、ましてや仕事の辛さからの逃避先として家族の温もりを求めてしまう。
僕の親も、我が子は愛し、の情から優しくしてくれるのだろうか。
この状態は、悪いことでは無いと思う。が、良いとも思えない。
こう思うのも、最近、富野監督の「ガンダムの家族論」を読んでいるからだ。
半分程度まで読み進んだが、そこまで読んだところでの氏の主張は
「家族とは修行の場である」
「男は父性を身に付けるべきである(あくまで、それ一辺倒だけでなく、母性を尊重する、また母性が男にあったとしても、そのうえで父性を持っているべきである)」
といった、今の僕にとっては耳に痛いような「痛烈な」主張の数々が発されていた。
この本の発行当時は、約7年前。
今というご時世は、そこから少し事情こそ変わりはすれども、大きくは変わらない。
今の、若者は、辛ければ逃げてもいい、楽しいだけを追い求めれば良い、ということが認められつつある(というか、若者がそれを訴えつつある?)風潮に対し、少しばかりかカウンターとなるような内容でもある。だから、身に沁みるのだ。
しかし、この本のあり方は、真の主張は、時勢に対する単なる「カウンター」という立場ではない気がする。
それは何かという僕の関心を、この本を読み進めることで追及していこうと思う次第だ。
お金を使うのって…
なんか、未だに対抗あるんだよなぁ。
当たり前のことだが、使えば、消えていく。
使うことに関して、そうして得たモノ、行為が本当に自分の血肉となるような有効なものなのか、常に自信がない。
また、その使うお金も、それを稼ぐに値するほどの仕事を自分がしたのか…つまり「自分自身でしっかり勝ち取ったお金なのか」ということにも自信がない。
詰まる所、お金を得ること、使うことに際して、「自分でつかみ取ったもの」である確信が常にないのだ。
このような疑念は、いつか消えるだろうか?
究極的なことを言えば、お金というのは物々交換の代替手段なのだから、狩猟生活でもすれば消え去るだろうな。
そういう価値観なものだから、正直そのような生活スタイルを送る者には興味がある。
以前、ニコ生の番組で「カメ五郎」なる方が出演し、喋っている様子を見たことがあるのだが、心底感服した。
ネクスエッジスタイル ガンダムMk-Ⅴ
せっかく手を加えたので、ポージング写真をひたすら貼っていきます。
バックビュー。
ビームライフル構えうち。
対地迎撃風ビームライフル。
ビームライフル決めポーズ風
飛行
切り裂く直前
切り裂き。
二刀流。
なんちゃってビームサーベル両刃。(後ろの方は差込口がバックパック基部に対応してる分の穴の深さしかないので、実際は後ろの刀身の付け根がちょっとはみ出てます。が、この写真は後ろの付け根を見せないように誤魔化している。w)
両刃風・後ろから。
ヒームカノン放射。フルバースト風
フルバースト風別アングル
終わり!
プロポーション、装備が割とゴテゴテしている都合もあり、(更に肩のミサイルコンテナは取り外し不可。上下に動くため多少は都合がつく)可動範囲はそれなりだがフィギュアそのもののプロポーションが名前通りエッジを効かせたものになっているおかげか、ポージングはそこまで派手でなくともなかなか様になってくれる。
1780円という価格で購入したが、この値段でガンダムMk-Ⅴの可動する立体物を手に入れられること自体素晴らしいので、何もいうことがない。
もちろん製品そのものの作りの短所は諸々に感じるが、それを差し引いても、安価なMk-Ⅴの立体物という一点が非常に、非常に大きいため瑣末ごとに感じられる。
めちゃ・良い買い物をしました。
手を加えること、ポージング遊びで二度楽しめた。
それにしても…撮影ブースとライティングが微妙なのよな。白色光で光度も高くしかも光源との位置が高いからプラ特有のテカりが見えてしまっている。
そして、ポージング遊びをしていたところ、一部の塗装した部分がこすれて剥離してしまった(ーー;)
更に言えばカメラもiPhoneクオリティなおかげでなんとも…という写真たちになってしまっている。あとカメラが近い。
時間見つけてちょいちょい改善していきます。
落ち着けた日であった
新年、一発目の記事!(もう一日が終わりそう)
2018年の大晦日は、翌日が1:15集合だった関係で21時ごろには寝た。
紅白を見るだとか、年越しそばをたべるだとか、大晦日らしいことは全く何もせず、普段通りに眠りについた。そのため、年越しの瞬間は普通に睡眠中だった。
この年ほど、何の感慨も湧かない年越しがあっただろうか。
今この瞬間も、「年が明けた」という感覚などはあまりにしないのだ。
そのような流れを持つコミュニティに、僕が接していないからである。
今日は分厚い朝刊配達を終え、諸々の準備を終えた後は、午前中に帰宅した(9時ごろ)。
その後、だらだらと朝食をとり、ゆっくりと寝た。
起きると、お風呂に入って洗濯や洗い物をし、部屋を片付け、コンビニでスイーツを買って食べていたりした。料理の作りおきもこなすと、もう17時ごろであった。
その後にネクスエッジスタイルのガンダムMk-Ⅴに手を加え、終えると今という次第だ。
スミ入れ。
スミ入れアンド部分塗装。
今年一年を適当に振り返る
新卒一年目の方のブログを発見した。
1日の可処分時間少なすぎね!?という記事だったが、そのブログによると1日ざっくり4時間使えることになるのだそうだ。
それは…最高じゃないか……
感覚マヒしてるのかなぁ。
(日記)
1〜3月は、色々と手探りで活動していた。
就活もそうだが、資格取得に旅行、お絵かきも、など色々やって、正直かなり充実していた。
からの四月。
仕事が始まってからの落差ったらない。
クオリティオブライフが、音を立てて落ちていくのを感じた。
それまで拓けていたように感じた人間関係も、一気に仕事絡み、それもおじさまおばさまがたばかりの世界へと変貌する。
そのような人たちと、何を話していいかわからないから、当たり障りなく取り繕うような言葉ばかりを並べていた。
四月は、研修漬けということでビジネススクールに通わされた。
これは楽しいっちゃ楽しかったが、問題は「一度に詰め込みすぎ」なことだ。
脳がインプットのキャパシティを越えるものだから、今となっては何を覚えたのか正直覚えていない。
人間の脳の特徴として
「急激にたくさんの、多方向からの情報は一度に処理できない」
「環境、習慣など変化には、すぐに順応することはできない、徐々にならば対処ができる」
というものがある。
そんなだから、この研修期間のことは正直あまり覚えていない。その変化に対応ができなかったのだ。
さて、5月。
実務であるところの配達業務が始まった。
まず、当然戸惑ったのは起きる時間の早さだ。
午前2時。なんという早さだろうか。
今もこの頃に起きているのだが、アラームをセットしなければ未だにちゃんと起きられない。
というより、このリズムに順応したくない自分がいる。
このような生活リズムだから、自律神経がぶっ壊れているような気がしないでもない。
そうなると、あらゆる物事へのパフォーマンスが低下しているのではないか、という疑念を未だに抱いている。
月を経るごとに、どんどん配達区域が増えていったし、集金する件数も増えていった。
それと同時に、やはり僕自身の可処分時間は消えていった。
仕事を始めた当初、「ある程度の睡眠時間を削ることを前提に趣味に取り組む」ことをしていた。しかし、これをすると、命の危険を感じたのだ。だから、できなくなった。
この冬は、ろくに家事もこなせず、お風呂を入る時間さえとれずに終わる1日も多々あった。
この積もる雪の中、毎日の朝夕刊と、翌日の配達準備の手配を進ませ、降りかかる細々な雑用を片付け、そこまでやってから集金に取り組む。
…無理だろ。こういうことをこなしきるのは。
そんなわけで、僕は外回りの時間でサボることが多くなった。
サボるというか、一度帰って家事をこなすだとか、仮眠をとるだとか。本当に拘束時間が長いんだもの…
さて、僕の心の移り変わり。
夏頃までは、まだ趣味について、自分の心のありようについてじっくり考え、取り組む余裕があった。そんなだから、ポケモンもできていた。
しかし、10月頃からは、いよいよ降りかかる仕事の多さに、平日は本当に何もできない日々が続いた。
趣味に取り掛かろうにも、「でも時間が…」となってしまう。そんなだから、平日は手軽に享受できる娯楽…そう、youtubeなんかをサーフィンして観ることが多くなってきた。
そうさ。段々とスマホを触る時間が増えてきている。
このことは、やはり虚しい。
趣味をこなすとなると、休日だ。
だが、この休日にやらなければいけないことも決まっている。
●溜まっている洗濯物を干す
●洗い物をする
●平日は時間がないので、ご飯を炊いておく、料理を作りおきしておく
●食料の買い出しに出る
●お風呂や部屋の掃除
これらをいいペースでこなせたとしても、1日の午前いっぱいを使ってしまうことがほとんどだ。
それでいて、残りの時間には友達と会うのか、家族のもとへ帰るのか、趣味をするか。
トレードオフなのだ。だから、とても休日の時間も短い。
この一年間、僕は最終的に奴隷のような生き方をしている気がしてならない。
だが、他の社員はもっと酷い。部長はここ数年休みなし、他の社員も例えば脳梗塞で倒れたり、内臓での腫瘍ができて入院をしたり、ガンで休職したり。
恐ろしい話だ。こんな拘束時間でこんな生活リズムで生きていると、このようになるのだ。
どうあがいても、人間的な生活は営めない。これは確信している。
部長は、会社のレール作りをしている。
このような業務だけでなく、企画部、制作部の立ち上げを計画している。
つまるところ、もっとマトモな会社になろうとあがいているのだ。
そう捉えるならば、そもそもこの会社は、正直「現代の企業」としての体をまるで成していない。
あってないようなタイムカード、ネットワーク環境の未整備、存在しない有給休暇、社員数に比べて足りていないデスクやPC、管理業務の一切を手書きでこなす、…
本当にひどいものだと、この一年で思い知った。
女性関係も、多少なりともエピソードはある。
しかし、僕のこの惨めさと、自身の自由時間の少なさを鑑みて、なかなか腰が重く、大したリアクションもとらずにここまできたことが事実だ。
本当は、会社のことなど、僕は書きたくない。
しかし、「書いてしまうのだ」。
今の生活を、時間も心も、大きく僕を侵食しているのが、今の仕事である。そう考えると、とても悔しい 。
僕という人間は、仕事ひとつに呑まれる程度のちっぽけな存在であるということだ。
だから、本当は興味関心のあることについて、面白おかしく書き綴りたいというのが気持ちなのだ。
それを、仕事などというものが食い破ってくるものだから、本当に辟易としてしまう。
本当はね。その「仕事」そのものが興味関心の対象であり、また自己の知的欲求を満たすだとか、刺激するものであればとても充実するのだろうが、そうではない。そのような選択をするのを、怠ってしまったのだ…。
だけど…
「いつまでも、こんな世の中じゃないだろう?」
この言葉を信じるしかない。
それでも僕には…少しの野心があるのだ…