レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

msn04

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線画ができた〜〜!!!

やっとである。

明日から色を塗る。アニメのピンナップ風に塗るのが目標。

 

で、それだけだと文字数も淡白なので、最近の消化物について一言ずつだけ羅列していく。

忘備録である。

 

●小説

ほしのこえ…一月くらい前に読んだ。

読み返すと案外、外宇宙に行くにつれて間隔が遠のく文通…というイマジネーションは織姫と彦星のようで、いいもんだと思えてしまった。

映像版はトレーサー(人型ロボット)の造形がもろにアレじゃん!という突っ込みで頭に入らなかったのだけど、文芸作品として今一度読んでみるとなかなかいいものであり、ラストの展開もこちらは清々しい。

 

・秒速五センチメートル

映像版は、「俺にホレた女たち」みたいな物語でひたすらダンディズムと独りよがりで幕を閉じているのでは、というのが、数年前の僕の感想であった。

しかし、これも文章で読み返すと、「押しが足りなかった」「意思を明白にできなかった」主人公の自戒にも似た念の自覚が確かに綴られており、単なるダンディズムから明確に脱却する描写がなされていると思えて、もちろんアニメ版同様の終わり方ではあるものの、内面描写がはっきりとしている分、やはりこちらもどこか清々しさも覚えた。

 

●アニメ

・キャロル&チューズデイ

面白い。物語のスケールが少しずつ大きくなり、政治劇と音楽…というマクロな物語構造から、恋愛劇というミクロの物語も動く。

案外ありそうな世界設定に思えて、しっかりそれを描写しているアニメ作品がなかったからか、妙に新鮮さも覚えたりもする。やってることはマクロス7とかも近いのかもしれないけど、こっちはドラマ面強めってところなのだろうか。

 

・グランベルム 

これも面白い。登場人物が悉く訳ありであり、露悪的とすらも思えるかもしれないが、もはやエゴイズム同士の対立でしかドラマが進展していないあたり、ダンバインのようなシチュエーションを彷彿とさせる。ただし、ダンバインとの違いは、それをエゴの対立であるという自覚を持ち、怨嗟を終わらせるという目的を持った人物は、究極的にはいないということだ。

そうなると、物語のカオス化が起きる。

このカオスを楽しめると、中々面白く思える…というのは、趣味悪いかもしれないが。

捻りの強いお話。

 

・ぼくらの

GYAOで配信しているので順次見ている。

これも面白いんだよな〜〜〜〜。

どことなく純文学的な雰囲気と、死という現実に向き合う子供たち、というどこか儚げなシチュエーションが作品独特の哀愁を思わせてとてもリリカルである。

 

●映画

・誰も知らない

おもろい。是枝監督の作品は、「切り取った現実空間」という特徴を持っているんでないかという感想がある。

これもやはりそのテイストがあり、子供だけの暮らしは、確実に腐食していくものだということをありありと、しかしどこか優しさを伴って描写がなされる。

案外、こういうイマジネーションは、鉄血のオルフェンズが近しいようにも思えた。

 

娼年

松坂桃李のやつ。おもろかった。

なんか思うことはあるのに感想が出ない。

描写そのものはアダルティだが、れっきとしたハーレムものである。男の征服欲はとても満たされる。

 

なら、あたしはアルパで守ってあげるわ、シャア…!

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サザビー進捗。あとは右腕とファンネルを描こうと思う。…今週中無理とかいうだらしなさ(^_^;)(^_^;)(^_^;)

 

台詞を記事にすると、語りたくなってしまう。

 

巷ではウザいとかヴィランとかいらないとか汚いミクさんとかも評されて散々なクェスだが、僕はとても好きなキャラクターである。

一言で評するなら、自意識や才能の吐露をとても歪な形で発した、発せざるを得なかった、そして母にもなり損ねた『少女』なのだ。

さらにその少女を脱しようとした少女像としてのクェスは、確実に宇宙時代を描き、そしてある程度の歴史を劇中で積み重ねた宇宙世紀という架空作品でしか描き得ないリアリズムと共にあるキャラクターであると僕は確信している。

同時に、クェスの家族観の感覚は、現代のティーンエイジャーや、20代前半ほどに近い、とても現代的なものであるとも思えている。これはやや経験則的な感想でしかないのだけど…

 

で、タイトル通りのクェスの台詞について。

クェスにとってのアルパ。

α(アルパ)=『第一の』、

アジール=『聖域』

である。

彼女にとってのアルパは、自身がくつろげる空間や居場所であるという解釈だ(初の聖域)。

居場所を得られたという自覚を得たクェスの心は、落ち着きどころを見つけ、しかしやはり14歳頃の思春期であるから、年相応の増長を見せてしまう。これは、「そう状態」に近しいかもしれない。

で、そのように気分が上向いているクェスは、シャアがララァに母性をも求めていたことを肌感覚で感じ取っていた。

そのようなシャアの、女性への潜在的欲求を、彼女なりに満たそうとしたがゆえに、

アルパというMSよりも巨大なMA=母の象徴を以って、シャアを守って「あげる」と言ったのだ。

そしてこの時、「シャア」と名前で呼び捨てにする。

 

「シャア、あなたを」、「大きなアルパで」、「守ってあげるわ」。

 

このような言葉は、その言葉だけ切り取るならば、とうてい少女のそれとは思えないだろう。

彼女なりに、シャアが何を求めているかを感じ、必死にそれを満たせるものに「なろうとした」。

その想いには全く淀みがないのだが、価値観自体の愚直さ故に、シャアにはどこか軽視、もしくは利用できるものとして捉えられてしまう。

 

また、クェスも、こう想うこと以上に想像力を広げることができなかった。

その想像力の限界が、後に因果の帰結=クェス自身の死へと向かっていくこととなる。

 

その帰結の作劇でのロジックは、半ば露悪的ともとれるが、やはりとてもシビアな価値観を突きつけられると思わざるを得ない。

 

 

 

日記

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サザビー途中。

月曜日までに完成させたいなあ〜〜。 

 

やはりメカ絵は、直線はフリーハンド厳禁だ。定規で描くととても違うことがわかった。

 

そして、ディテールをどこまで描き込むかという塩梅についても少しわかった。

 

 

●人間関係

・以前の友達、それもそれぞれ別の人から、今日はなぜか二回も「久しぶり!」の連絡がきた。

そういう時もあるのだなと思えた。

「モテ期」?

 

・ふだん、好きな人とはよく連絡をとり、たわいないことでもラリーを続けていた。

のだが、ちょっとした拍子に、休日、一日何も連絡をとらなかった。

そうしてみて、人を好き好む気持ちの整理が少しついたし、自身の嗜好と他者への関心を一緒くたにしがちな僕の内面についても、多少の割り切りがつけられたようにも思えた。

自分をあたためられるから、人をあたためられるのだと思う。

しかし、独りでいすぎても腐るし、人といすぎても疲れる。そういう目に見えづらいもののバランスは、それでも少し考えておけば、辛くなりすぎないと思える。

 

●仕事

来月から休みがほとんど半減する。月8回から月4回に。

ちょっと絶望感がある。

 

「やってやる!!」と思える仕事ならば、それでも良いだろう。

しかし、やはり僕は、今の仕事を「やることやってればオカネももらえる、つまり金のため」以上にはやはり思えていない。

 

だから、待遇がきつくなるのは、純粋に嫌だ。

 

だが、極論をいえば、そうならない制度づくりに奔走できなかった僕にも一要因があるとは言えてしまう。純粋に「休み減るの嫌!カスだ!」と、他人事のように言える立場では、残念ながらもはやないということだ。

で、この条件が嫌だと自覚して、じゃあどうすればいいのか、というのだが、

休み増やすために続けて頑張るか、辞めるかということくらいしか思い浮かばない。

で、そのような理由から辞めたく思うのだ…

 

御託はならべるが、ここまでくるとおそらく「健康で文化的な生活」を送れている自覚がなくなってしまう。だからなのだ。

 

しかし、結局の所、これらの理屈は「ゴネている」側面もあると思える。

要するに僕には、覚悟と忍耐が備わっていないのだ。「この会社でやり通してやる」という覚悟が。そして、その覚悟をするだけの調査力もなければ、そう思えるだけの知性をも現状持ち合わせていないということ。このことは、やはり自認しなければならない。

 

 

僕は、覚悟や精神論のような言葉たちを並べるのはやはり辞めたいと思う。だから、以前と比べそのような言説を記述することは減っただろうという自覚がある。

しかし、今回ばかりは書きたくなった。それだけ、自分の中でショックがあるということだ。予測はできたのかもしれないが。  

 

 

 

 

サザビーをおもう

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実は、サザビーをアニメ風塗装で再現してみようと組んでみた。

 

で、コピックでの塗装を試みた。

装甲裏地など、深い影色は100番でほぼほぼ塗り、これは、多少の塗りムラはあるものの、ぱっと見、いい感じに見た目の情報量をシャットアウトでき、アニメ的な線のディフォルメに使えると思った。

 

そのままの勢いで、装甲表面の影色もコピックで塗ってみた。(右腕です)

 

すると、 写真のごとく、塗りムラ、塗りムラ、アンド塗りムラで、大変なことになってしまった。とてもぼやけて見てみれば、たしかにアニメ調には見えるのだろうが、やはり塗りとしては余りにも汚い。

右腕を塗り終えた時点で、

…僕は、匙を投げてしまった。根性ナシだ…。

 

そんなワケで、装甲表面までコピック塗装は、ちょっと無謀かな〜〜と思えた。

これが教訓である。

 

 

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煮え切らなかったので、そのままの勢いで、サザビーを描いている所。

アニメ調の色ぬりは、こちらですればいいや〜〜という逃避である…。

 

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はやく色塗りをしたかったので、適当に手癖で描いた謎アーキテクチャ

 

 

 

『ウォッチメン』みてみた

すげ〜〜〜〜〜〜面白い。

 

僕は正直、マーベル系列というか、アメコミ映画の想像力に慣れていない自覚がある。

 

それは、アメリカ特有の「大きなもの」を話題としている(「世界の終末」なんかがテーマにきやすい所、それに糸を引く存在が最終的な壁として主人公と対立をするという構造、主人公は力の行使力を予めもっていて、主張の対立というよりは、主張の正当性の確認で終わっているように思えてしまう)部分がどうにも慣れないというか、短絡的な理屈に思えてしまうからだ。

そのようなロジック性よりも、ビジュアル的な、視覚的アクション性を楽しむことこそが本題だ、と言われれば、そのことに反論しようがないし、そのような楽しみ方を出来ない自分の価値観はどうにも切り替えができないものだとも思える。

 

 

が、この作品は明らかに、そのような(大きなものを描写する)体裁を取りながら、その構造を再考し、ヒーローの不可逆性にまで踏み込んだ考察を作品を通じて展開していると感ぜられた。

 

結果として、主人公ことロールシャッハは、とてもミクロな価値観を展開して、それを文字通り最期の最期まで貫いてしまったがために、因果応報ともいえる結末を辿るのだが、これはエゴイズムを究極的なまでに貫けることができたという点で、ある種のハードボイルドととることもできる。

 

とにかく、「主人公のキャラクター像」の切り口が新鮮なのだ。ヒーロー映画の文脈でなければ描けない、しかしヒーローでない存在。

このような、決して二項対立などで片付けられない、どことなく文学的作風すら漂わせる本作は、本当に独特な雰囲気を放っているとすら思える。

 

視聴後の余韻で、色々考えるのだが、考えれば考えるほど、めっちゃ面白かったわ。

 

ヒーローという、暴力の範疇を超えた力の行使は、現実という枠組みとの関連として照らし合わせて考えていくと、やはり政治や軍事とは切り離せない関係となる。だから、ヒーロー像をリアリティを以って描くとき、それは確実にポリティカルフィクションの側面を持たざるを得ないというのが僕個人の所感だ。

 

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今日の落書き。継守的な手癖ロボ。わりとお気に入り。

『ポッピンQ』今更感想

ポッピンQ 感想

TSUTAYAで目に留まって、「そういえば...」と思い、レンタルして視聴。


思いの外面白かった。
主人公はじめ、それぞれのメインキャラが中学卒業を目前に「ある失敗を境に時間が止まったままだと感じ、引け目を感じている」状態で、ポッピン族の世界に召喚され、その世界での困難が、実生活の困難とリンクし、それを超克したときに時間を進められた=成長ができたという自覚をもたらす...という王道的物語。
起承転結のテンポも存外悪くなく、作画レベルも高水準。
キャラクターデザインもわりかしキャッチーかつポップなテイストで、現代的でなじみやすい線であると感じる。

タイトルの「Q」も、「時間を進める」ことをテーマにした、時計の針を模したものということが分かる。
このテーマを主軸にストーリー展開がなされるため、ブレていると感じることなく、わりかし爽快感とともに映像を視聴することができた。

何がいけなかったか。...というより、何故人気に火がつかなかったか。

これは完全に広告手法の失敗はある気がする。
作品の出来以上に、それを売り込む手段に乏しかったというのが自分の感想だ。

また、これがなかなか言語化が難しいのだが、個々の要素が、どこかで絶妙に「噛み合わなさ」があるように感じられた。

異世界への召喚、そこでの異生物たち、卒業間近の女子中学生、群像劇、成長劇、変身少女、アイドル風ダンス、...個々の「属性」的なものを抽出すれば、この作品はこのようなものである。

これのどこが、噛み合っていなさ、もしくは「モヤモヤ」を感じさせるのか。

ともすれば、「詰め込みすぎ」があるのかもしれない。
たとえば、「変身少女」の段階で既に物語の困難を打破する下地ができあがっているのに、
さらなる状況打破のために、今度は「ダンス」を用いることになる。
そして、「変身少女」「ダンス」これらは、ストーリーでポッと出にさせないため、下地となる理屈や描写はこの作品ではきちんと作っている。説明があると言うことだ。

約100分という決められた尺の中で、アレをやったりコレをやったり、かえってバラエティに富みすぎる演出をしてしまったがために、演出方面においては「言いようのない一貫性のなさ」を感じさせられたのかもしれない。
僕個人の感想では、ここがこの作品の歯がゆいところだと思える。

あとは、作品のCパートともいうべき、「高校生活の今後を予見させる描写」について。
これは蛇足だが、要するに「予告編」だ。これについては、...ガンバレ!というのが感想である。

しかし、テンポ自体はほんとうによく、「時間を進める」ことをテーマに群像劇と成長劇を尺のなかで描ききるのは、「王道で快活なストーリー」であると思えた。


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僕はこの作品、実は「チャージマン研!」や「DYNAMIC CODE」などのように、「期せずしてできあがってしまった怪作」を期待して作品を視聴したというのが正直なところ、事実だ。

しかしふたを開けてみると、とても堅実な作品であったため、素直に感動です。

ただ、難しいところが、そのような「怪作」にもなり得なかったために、知名度としては...というのがあるだろう。

でも僕は割と好ましく思えるな。この作品。
リアルタイムで劇場に視聴をしにいったら、正直ハマっていたかもしれない。
作品の方向性はストーリー自体は定まっているものの、メディアとしてはどのように売り込むかが微妙に定まっていない、絶妙にどこか不安定な作品。
それでも、熱量自体は感じられる作品だったのだから。

というか、「感想を書きたくなる作品」というのは、そういうことなのだ。自身の琴線に触れなければ、とうてい感想など書かないのだから。

『荒ぶる季節の乙女どもよ。』中途感想

原作を買って読んでいる(6巻まで読んだ)。

はっきり言って、神作品だ。


人間が生きていくうえで、意識することを避けては通れないもの。
それは、セックスである。

というよりも、『生命の存続』は、考える/考えないなしに、原初生命の誕生以来紡がれてきたものであるから、それを閉ざすという発想自体、(理性を抜きにしては)まず起こりえない。

で、その「セックス」についての自意識、解釈のあり方をひたすら問うてくれるのがこの作品である。

(そもそも、「セックス」の隠語として「えすいばつ」なるワードが頻出し、これが作品の象徴ともいえるキーワードとなっているくらいだ)

 

 

かといって、直接的に描かれるわけではない。あくまでも婉曲的なものだ。
すべて絵で表現される漫画いえども、どれだけセックスを想起させるシーンであっても直接的表眼は避ける。
これは、漫画という形態をもちながらもどこか純文学作品的雰囲気を漂わせている。


完全に「児童」をターゲットをした作品でなければ、おおかたの創作物には「男女の関係」を想起させるシーンは必ずしも出てくるし、題材にもなる。
その理由は至極単純で、「人間はセックス(セクシャル)を求めるから」だ。

この作品は、本当にその「セックス」要素のディテール追求にのみ焦点をあて、その核心に沿ったストーリー展開が織りなされる。

どれだけキャラクターそれぞれの人間関係の矢印が移り変わろうが、心情が変化しようが、
すべてこの軸に沿ったシナリオ展開がなされるため、案外主張がいい意味で分かりやすいのも特徴だ。

表現は婉曲的であり、絵柄も柔らかく暖かみのあるタッチであるのに、ときおり織りなされる直球勝負の台詞や、刺激的なシチュエーションの数々が、読む側にとっては強烈な刺激となって返ってくる。

そしてこの作品は、「男性/女性のあり方」について必ず問うてくる作品である。
そのような意味では、基本的に男性、女性しか存在しない人間社会へのフィードバック性はとても高い作品であると感じる。


...だからこそ。
この作品は、全人類に読んでほしいと思う。
特に、10代の男女に!!!!!!!!!!!!!

 

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↑第6巻・すこなシーン。

男性は、理屈を抜きにして、「本能でその気があれば」異性に勃起することができる。

上の画像。泉は菅原氏に対して、セックスを拒んだ。口ではそう言ったにも関わらず、体は反応をしてしまっている。それはつまり、「理屈で拒んでいるに過ぎない」ということだ。

菅原氏は、そんな泉の諸々のリアクションに対して、毒を吐くように告げるのだ。「勃ってたくせに」。

そう、その通りだ。男とは古来、自分の縄張りを広げることだけに執着をしてきた。それは死と隣り合わせである。だから、自身がいつ潰えてもいいように、繋がりは残しておきたいという衝動が生じる。だから、女性に対しては「不可でなければ行為はできる」という根源的な欲求を持っている。

 

しかし、下の画像である。

そのような根源的な欲求は、理性や理屈、ロジックによって防ぐこともできる。

ミロ先生こと山岸先生は、自身に様々なアプローチを仕掛ける女子文芸部員・本郷の悉くを軽くいなし、自らは罰されることのないギリギリの範疇で、刺激のある行為を要求する。

 しかし、このシーンの後で判明することだが、山岸先生が本郷の行動に無感動的である理由として、「自分にいくじがない」ことを告げる。

 

意気地がない。

男性教諭と女子生徒の色恋沙汰。

その文字だけで、ゴシップ的話題というか、教育委員会的案件すら発展しかねないことは明白である。

もちろんそれだけでもないだろうが、とにかく、この二人の関係には、それを進めようとすれば、「壁」と「困難」が現実問題として立ちはだかることは事実だ。

それを、乗り越える覚悟はない。だから、自身に強烈な関心を向ける本郷に対して、どこか素っ気なく接する。

そんな自身を評して、「意気地がない」という。

そして、いざ本番という時まで迫る本郷に対しても、彼は勃起をしない。

本能に、理性がフタをしている。

 

理性に勝る本能と、

本能に勝る理性。

「男性の勃起」一つを話題にしたこの2シーンだけでも、その情動の違いが浮き彫りになる。

 

 

 

…………
本当に、恋愛の教科書であり、男女観を育てる、もしくは一考させてくれる一作品であると感じる。


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物語は、基本的にはセクシャルを抜きにして語れない。
かつて、ロボットアニメが栄華を極めたのはなぜか?
巨大ロボットこそが、大きなもの、巨大なもの、力の象徴として機能し、男性性を成り立たせるものであったからだ。
そして、巨大ロボットのふるう力とは、基本的に暴力である。
暴力とは、死をもたらすものである。
つまり、男性性の象徴たる巨大ロボットは、死の象徴にも近しい、もしくは等しい存在である。
男達の根源的なタナトスの情動を、かつてより多く刺激してきたものが、これだといえよう。

では、リビドーを刺激するものはナニか?
アニメーションにおいては、昨今の文脈で言えばそれは「美少女アイドル」である。
アイドルキャラとは、舞台の上で理想的な「偶像」を、文字通り演じることで、周囲に活力を与えるのである。ときにそれは暴走してしまうが、それらはすべてリビドーから織りなされる欲求や、情動や、行動であるはずだ。

う~~~ん主張はないのだけど、なんかこんなことを書いてしまった。
昨今...というより、男性向け作品の文脈からしてそうなのだが、女の子キャラクターの存在性については重視されることが多い気がするのよね。
だから、自分の好きな女の子キャラを愛することにより想像力を高めたかったり、それを通じて自己の成長を感じたかったら、本当にこの作品を読んでほしいと思う(スゲェ理屈を言っている気がする)。

 

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そして、僕も今現在、恋愛をおそらくしている。

自分が誰かを想っているし、想われている自覚がある。


自分の状況がそうなのだから、やはり多かれ少なかれ自己投影や感情移入はするものだ。

そして、そのような状況に置かれる存在と、創作物への感情移入や情動の動きがどのようであるかについてもこの作品では描いている。

本当に描写は緻密であると思う。
間違いなく、岡田麿里女子のみせる脚本術が冴え渡っている、
そして確実に洗練されていっている一作であるといえよう。