はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

オリジナル小説を供養する(筋書きや設定等を盛大に書きなぐる)

★ジャンル:SF、ヒューマンドラマ?純文学寄り?ちょっとサイコ入ってる。すねらせロリコン野郎がひたすらわるいことをするキモイお話

 

★ずっと非公開にしてるのが煩わしくて公開状態にしちゃった。。

以下、灰色の文字の部分は今後加筆修正の可能性アリ。

その場合は更新履歴としてこの記事の最後に記述することにします。

 

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頭を使うから病みなんてしない 

心のありようの形を

言葉で綴ろうとすることに躍起になる

ぼくに必要なのはそれじゃない

 

それらを訳すると 

多分全て 「逃げたい」「面倒くさい」「今のままでいい」とかに集約される

 

 

心のあり方は

 

つづり方次第だ

 

ことばすべては

 

よく言うこともできる

 

そして、悪くいうこともできる

 

追及したところで、対話を経なければ

 

なんになるっていうんだ

 

 

つまるところ

 

手を動かす

 

 

それだけでいい

 

 

つまり 考えるべきは

 

この状態にならない事前状況環境をつくることを考えるとか

 

現段階という 対処的なやり方は

 

まず後先考えることをやめ

 

低カロリーでもいいのでやってみる

 

そして これら行動と 自分他人の関係性のいっさいを排除することだ

 

今の僕にはそれでいいはずだ

 

…この記事の内容を訳す。

 

「試験日まで、時間がない。にもかかわらず、ちょっと休憩をながびかせてしまった。本来、勉強をすべきなのに。

そのことに心が弱って、その心の弱りが別のことに敷衍して、手を動かさない口実を作りたがっている。」

さらに訳す。

「勉強めんどくせえ」

「やって何になるんだ」

 

考え方を変えてみる。

僕は勉強をしているんでなく、実務知識を学ぶとか、もっといえば、遊び=お絵描きをより楽しむための知識を身につける、遊びをしている。

遊びのための遊びで、より人間らしい、人間でなければ考えも浮かばないような、愉快なものを考えるための遊び。

 

「やって何になるんだ」

⇨これは、究極的にはありとあらゆることに言えてしまう。YouTubeをだら見すること。ゲームをする。旅行にいく。…何でもいい。

「やって何になるんだ」は、あらゆることを無に帰すロジックだ。

とはいえ、「やってみたいこと」の優先度があるんだ。僕にとっての「やってみたいこと」が、今している色検の勉強であったことは間違いない。自発的に取り組んだこと。

…やって何になるか。知るか。問いへの答えはない。が、逆に言うと「じゃあ何がやるのが正解か」とか、「やることで認められる・報われること」とかの話になる。

知らねー。そんなことを考える脳もなければ考え尽くす分野興味もない。アンテナはあるのだろうが深掘りするほどじゃない。

だからいい。やって何になる 知るか 知らない やればいいんだ それが人間らしいことなんだ

 

 

やらない理由が消えた。

 

僕は遊びをする。遊びのためのことをする。

遊びのためのことも遊びだ。

 

それだけでいい

 

 

…最近、へんなことを考える

 

人間は、言葉、口頭伝達という手段を身につけた昆虫的な群体とさして変わらないんじゃないかという話

 

これ、前にも書いたかもしれないけど、

 

「人間」という言葉、面白い。

「生命」がこの地球上にあまねく中、自分たちだけ「人間」と区別つけて群体の固有名詞をつけている。

それが口頭伝達を容易にする為という実務的な理由もあったことはわかるけど

それにしたって自尊心過剰じゃないかと。

面白いなぁ 人間さま 人間さま 人間さまの世界

人間って人間が大好きなんだ。

 

僕もそうだ

 

でも僕の本当は そうなることが正義っていう社会規範があるから それに従って他者を好きになろうとしている だけなのかもしれない

 

…と、考える 考えてしまう

 

 

でも 人間がより人間らしくなっていくきっかけは

人間が「人間」というより「人間と世界」といっぽ俯瞰してみて、それを考え、描いたそのとき、それをみた人が、何かを頭の中で思い浮かべたとき な気がする

 

が、こんなに単純じゃないんだろうな

 

でもいい 世界のあり方が本当はこんなで、こんな複雑でムツカシイロジックがあって なんて… 難しいならいいや。わかることから分かっていくのでいっぱいいっぱいだ。そのわかるをなるべく増やしたいとは思ってるから いいじゃんか。って思ってる。

 

 

 

 

いっぱい書いちゃった。

 

 

勉強 もとい

 

机に向かってカラーカードを睨みながらひたすら切って貼って という(ある程度)頭を使うらしい …「あそび」

をします

 

このブログTwitterとリンク切ったからほんとに書ける範囲のこと忖度なく書いていこうと思う

 

僕は他者に対して前提として肯定的だからマズイことは書かないと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

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んあーーーってなった
やべーであります

色を見た時にトーンと色相番号と
明度まで把握できてねぇ

あと二週間ってとこなんだけどいけるんか、、??
ガチれば余裕(最悪)

あーーーー落ちたくないなぁ

でも色一つ一つのことを知った時にその色の歴史についてふれるっていうのはなんか...ステキね...

コバルト色なんて すごくいい色に思うけど
化学実験によって出来上がった人口の色なのだと
不思議なもんだなぁ....

デジタルイラストだって、その系譜かもしれないなぁとか思う
画面の描画技術の向上によって多種多様な色を出力することができるようになった
当たり前にやっていることだけど、ときおりすごいことだよなぁって思ってデジ絵をかいている

ということを思った一方で、紙の上に線を引く感覚っていうのは、というかこれこそ源流なのだろうが、やっぱり気持ちいい

どんどんさかのぼっていったら洞窟壁画とかになるか,,,

というので思い出したのだけど
ブルーピリオドのお話。森まゆ先輩が言っていた。
「絵は祈りだと思っている」というお話。
源流をたどっていくと、きっとそうなっていく

ラスコー、アルタミラ,,,そういう壁画が、「祈り」によって描かれたもので、人と生きもののつながりを考えたのだろうか

生きものに対して なんの「祈り」をささげたのだろうか

...

考えていくと無限に広がってしまうね。
そういや、
僕は、「絵」と「イラスト」の違いについてちょっと思い当たったことがある
それは、『正解の有無』なんでないかということだ。(個人の感想です)
絵には正解がない。ピカソのような抽象画もあれば、日本画だって線が少なく計算された画面構成だったり、スーパー写実主義で絵を描く画家だっている。「絵」、「絵」にどんな世界を見出すか。それは観た人の感受性に委ねるところが大きいとも思っている。感じ方にも正解がない。
で、イラストレーション。これはかなり具体的に用いられる。もっと限定的なことをいえば、アニメのワンシーンでもいい。変身した美少女がキメポーズをとる。イケメンがふふっと笑う。ドキンと赤くなる女の子。必殺技をぶっ放すヒーローの迫力あるひとコマ。それらは、用法が定まっている。どう感じてもらうかも、明確だ。カワイイ!キュンとする!カッコイイ!燃える!とか。
その意図を伝えるために、描き方の「型」が、わりとある。あるし、技法的に、最終的に、ぱっと見では似通ってしまうかもしれないところがどうしてもある。そう伝えるための「型」≒「正解」があるのではないか、と思った。
でも、正解を描けばいいってもんじゃない。そこに忠実になるすぎると、イラストレーションいえどもたんなる真似の一芸で、いわゆる「パクリ」になってしまうとか、見慣れたものだからすぐに忘れられる...とか、色々あると思う。それでも思う。
結局のところ、どちらも「確固たる正解」そのものはないと思う。思いたい。でも、正解への距離感の近しさが、絵画<イラストレーションなんだと思っている。
で、どちらもアートで、ものづくりだ。絵画とイラストレーションを区別したけれど、区別なんてほんとうはしなくてもいいと思う。
心を豊かにしてくれるものづくりがあれば、それだけで幸せだと思うから。(強引なしめくくり)