知能や感情、不確かで浮遊的、概念的な存在への認識
当たり障りのない言い方だが、そのような認識は、時代性や民族性、国民性によって左右されることが大きいのだと思う。
とても大雑把だが、ちょっと便宜的に、例えば20世紀以前、以後を「物質主義」と「非物質主義」とに別けるとする。
前者の文脈では、「モノを使う人間」「人間に使われるモノ」という認識が普遍性をもっている。となると、あらゆるものへの考え方の根幹は、基本的にはモノと人間という関係性ありきのものとなる。
「非物質主義」は、いってみればサイバティクスである。あらゆる行動への効率化は、ツール、補助デバイスを簡素化、小型化することであると、現代の我々は捉えており、その典型が「非物質化」である。ようするに、「作業を画面の中に落とし込む」ということだ。
このような切り分け方をして思ったことに、確かに現代のサイバティクス技術の発達は、日進月歩という程度でないほどのスピードであり、言葉も出ない。
しかしながら、そのような「非物質主義」の世界の土壌を作ったのは、紛れもなく、「物質主義」の世界に属していた人間であるということだ。
その世界からの脱出や、次なる段階を見出し、物質から非物質への転換となる道を切り拓いた。
このことは、このような人間が産まれたことは、「人間社会での文脈としての『進化』」といえよう。
(日記はここで終わっている)
人間ってなんだ、というNHKの番組、恐ろしい。
情報量が多すぎて、吐き気を催すほどだ。