はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

2021/01/02 『泣きたい私は猫をかぶる』

『泣きたい私は猫をかぶる』
を、起床したら観ようと思った。

そして、観た。

本当によかった。

岡田麿里女史がメイン脚本をつとめる作品、
『あの花』で一つの甚だしいメイン作品になろうと思う。
そこからの10年来の作品の歩みを考えると、
この作品におけるキャラクター達の心の歩み合いは、(毒を交えながらも)いい意味でストレートになってきている気がする。

それは、「私」=ムゲ=美代と日之出君が互いに「好き」と素直に互いの気持ちを伝え合うことをゴールとする...

という、とても「どストレート」な着地に落ち着かせているということだ。


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ガンダムオタク的な感想。
 ファースト・ガンダムにおける『ガンダム』は、
生身では何の実行力をもたない主人公アムロが『実行力』をもつための『拡張身体』であった。保育器にも近しい役割をしている。
そのアムロが、最終話「脱出」にて、ガンダムと、その心臓部たるコア・ファイターすら投棄して、確かな絆を感じた仲間たちのもとへと還る。
『生身の身体』としてのアムロは、「ガンダムパイロットたるアムロ」でなく、「アムロ・レイ」彼自身として仲間達と共にいられることを自覚したということだ。

 「泣き猫」における、これに近しい舞台装置はナニか。それは、美代にとって「猫」に変身ができるという「仮面」だ。
アムロにとってのガンダム。それが、美代にとっての仮面だったのだ。

そして、両者共に、物語の終着点において、それらを投棄する。
生身の自分として、向き合うべき場所、向き合うべき相手に想いを伝えるために。

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本当は、もっと書くべき感想がたくさんある。
エモくなれる所が、いっぱいある。

だけど、とても残酷なことを言うと、優先順位がある...。

そのように、自分の感受性や熱量をもコントロールできてしまう自分というのに、
やはり一抹の歯がゆさを感じずにはいられない。

それでも。
優先順位なのだ...。優先順位なのだ...!