原作を買って読んでいる(6巻まで読んだ)。
はっきり言って、神作品だ。
人間が生きていくうえで、意識することを避けては通れないもの。
それは、セックスである。
というよりも、『生命の存続』は、考える/考えないなしに、原初生命の誕生以来紡がれてきたものであるから、それを閉ざすという発想自体、(理性を抜きにしては)まず起こりえない。
で、その「セックス」についての自意識、解釈のあり方をひたすら問うてくれるのがこの作品である。
(そもそも、「セックス」の隠語として「えすいばつ」なるワードが頻出し、これが作品の象徴ともいえるキーワードとなっているくらいだ)
かといって、直接的に描かれるわけではない。あくまでも婉曲的なものだ。
すべて絵で表現される漫画いえども、どれだけセックスを想起させるシーンであっても直接的表眼は避ける。
これは、漫画という形態をもちながらもどこか純文学作品的雰囲気を漂わせている。
完全に「児童」をターゲットをした作品でなければ、おおかたの創作物には「男女の関係」を想起させるシーンは必ずしも出てくるし、題材にもなる。
その理由は至極単純で、「人間はセックス(セクシャル)を求めるから」だ。
この作品は、本当にその「セックス」要素のディテール追求にのみ焦点をあて、その核心に沿ったストーリー展開が織りなされる。
どれだけキャラクターそれぞれの人間関係の矢印が移り変わろうが、心情が変化しようが、
すべてこの軸に沿ったシナリオ展開がなされるため、案外主張がいい意味で分かりやすいのも特徴だ。
表現は婉曲的であり、絵柄も柔らかく暖かみのあるタッチであるのに、ときおり織りなされる直球勝負の台詞や、刺激的なシチュエーションの数々が、読む側にとっては強烈な刺激となって返ってくる。
そしてこの作品は、「男性/女性のあり方」について必ず問うてくる作品である。
そのような意味では、基本的に男性、女性しか存在しない人間社会へのフィードバック性はとても高い作品であると感じる。
...だからこそ。
この作品は、全人類に読んでほしいと思う。
特に、10代の男女に!!!!!!!!!!!!!
↑第6巻・すこなシーン。
男性は、理屈を抜きにして、「本能でその気があれば」異性に勃起することができる。
上の画像。泉は菅原氏に対して、セックスを拒んだ。口ではそう言ったにも関わらず、体は反応をしてしまっている。それはつまり、「理屈で拒んでいるに過ぎない」ということだ。
菅原氏は、そんな泉の諸々のリアクションに対して、毒を吐くように告げるのだ。「勃ってたくせに」。
そう、その通りだ。男とは古来、自分の縄張りを広げることだけに執着をしてきた。それは死と隣り合わせである。だから、自身がいつ潰えてもいいように、繋がりは残しておきたいという衝動が生じる。だから、女性に対しては「不可でなければ行為はできる」という根源的な欲求を持っている。
しかし、下の画像である。
そのような根源的な欲求は、理性や理屈、ロジックによって防ぐこともできる。
ミロ先生こと山岸先生は、自身に様々なアプローチを仕掛ける女子文芸部員・本郷の悉くを軽くいなし、自らは罰されることのないギリギリの範疇で、刺激のある行為を要求する。
しかし、このシーンの後で判明することだが、山岸先生が本郷の行動に無感動的である理由として、「自分にいくじがない」ことを告げる。
意気地がない。
男性教諭と女子生徒の色恋沙汰。
その文字だけで、ゴシップ的話題というか、教育委員会的案件すら発展しかねないことは明白である。
もちろんそれだけでもないだろうが、とにかく、この二人の関係には、それを進めようとすれば、「壁」と「困難」が現実問題として立ちはだかることは事実だ。
それを、乗り越える覚悟はない。だから、自身に強烈な関心を向ける本郷に対して、どこか素っ気なく接する。
そんな自身を評して、「意気地がない」という。
そして、いざ本番という時まで迫る本郷に対しても、彼は勃起をしない。
本能に、理性がフタをしている。
理性に勝る本能と、
本能に勝る理性。
「男性の勃起」一つを話題にしたこの2シーンだけでも、その情動の違いが浮き彫りになる。
…………
本当に、恋愛の教科書であり、男女観を育てる、もしくは一考させてくれる一作品であると感じる。
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物語は、基本的にはセクシャルを抜きにして語れない。
かつて、ロボットアニメが栄華を極めたのはなぜか?
巨大ロボットこそが、大きなもの、巨大なもの、力の象徴として機能し、男性性を成り立たせるものであったからだ。
そして、巨大ロボットのふるう力とは、基本的に暴力である。
暴力とは、死をもたらすものである。
つまり、男性性の象徴たる巨大ロボットは、死の象徴にも近しい、もしくは等しい存在である。
男達の根源的なタナトスの情動を、かつてより多く刺激してきたものが、これだといえよう。
では、リビドーを刺激するものはナニか?
アニメーションにおいては、昨今の文脈で言えばそれは「美少女アイドル」である。
アイドルキャラとは、舞台の上で理想的な「偶像」を、文字通り演じることで、周囲に活力を与えるのである。ときにそれは暴走してしまうが、それらはすべてリビドーから織りなされる欲求や、情動や、行動であるはずだ。
う~~~ん主張はないのだけど、なんかこんなことを書いてしまった。
昨今...というより、男性向け作品の文脈からしてそうなのだが、女の子キャラクターの存在性については重視されることが多い気がするのよね。
だから、自分の好きな女の子キャラを愛することにより想像力を高めたかったり、それを通じて自己の成長を感じたかったら、本当にこの作品を読んでほしいと思う(スゲェ理屈を言っている気がする)。
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そして、僕も今現在、恋愛をおそらくしている。
自分が誰かを想っているし、想われている自覚がある。
自分の状況がそうなのだから、やはり多かれ少なかれ自己投影や感情移入はするものだ。
そして、そのような状況に置かれる存在と、創作物への感情移入や情動の動きがどのようであるかについてもこの作品では描いている。
本当に描写は緻密であると思う。
間違いなく、岡田麿里女子のみせる脚本術が冴え渡っている、
そして確実に洗練されていっている一作であるといえよう。