はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

最近みたやつ

書き殴り。最近みたもの等

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こないだのアママイコアマカジ

 

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カラーチャートを自作。

 

 

(映画館で視聴)
・星の子
おおざっぱな書き方をすると、同作は、物語の原則「起承転結」をあえて崩し、
「起承転」あたりでフェードアウトさせる描き方をしている。
1時間半というタイムリミットを、結を削った3要素で描いているため、それぞれの部分の描写は具に描かれるのだが、テンポの冗長さを感じさせられる。

「金星の水」と称されたやたらと高い水を通信販売で買う一家と、それを売るアヤシイ宗教団体とのつながりを描き、一家の次女が中学三年生という節目の時点からその様相を描写するドラマ。
「宗教はおかしいし、みんながいうようにうちはおかしいかもしれない。それは分かる。でも父さんも母さんも好きなんだよ。」
を伝える作品だったと思う。
こう言ってはなんだけど、そんなことの描写に一時間半もかけるか?と、正直思ってしまった。要するに冗長であると。
が、難しいが、家族にはこうこうこういう事情と、そのやるせなさがある。
ということを丹念に描写すると「リドルストーリー」的になる。
一方で、
「こういう事情とやるせなさがある。そしてその問題に介入するある人物(たち)。時が進んで、さらにその問題をどうにかこうにかして...」
となると、確かにただの物語劇として埋没してしまう、展開如何によってはツマラナイものになる可能性だってある。が、こう書くのはナンセンスだが、やはり僕は、物語の「結」をなるべく観たい人間なのだと、同作を観て思った。
「なるべく」と描いたのは、『結』を描ききるのでなく、本当にその一歩、半歩手前まで観たいという欲求からだ。良いところで、でも決着はついたというような所で終わらせて、「あれは何だったのだろう」と反芻する。僕はそうしたい人間だ。要するに逆襲のシャアだ。Vガンダムだ。


・海辺のエトランゼ
「愛の形」としての同性愛。男性同士の愛。同作のビジュアルをみたとき、
それを強調するというより、ドラマとして自然にそれを描いているように思えた。
どことなく「文学性」を思わせた。
タッチが良い意味で「男女平等的」なのである。
というのは理屈で、僕でも「男の子かわいい...!!」と思ってしまったからである。
劇場に足を運ぶと、座席にいる男などは僕くらいっぽくて本当に冷や汗をかいた。
(観てる間はたいしたことなかったが)
で、映画を観てみると、家族のこともあって無愛想だった実央くんが駿への愛に自覚し、喜怒哀楽豊かに表現し駿へと迫るその仕草と行動ひとつひとつに本当にどきどきとした。
男性同士のセックスシーンも描写される同作だが、そもそもセックスとは愛を確かめ合う行為であり、愛し合っている様をロマンスたっぷりで具に表現しているというのは、気持ちのよいものだった。


(視聴中)
・アサルトリリィ
ほぼながら見で見てる。「モノトーン主体のシックな服装の女の子とメカ」というビジュアル面に惹かれてみている。こんなことを書くのは酷だが、ビジュアルだけすきで見ている。
・17.3 about a sex
某新聞の夕刊にて紹介されていたことから視聴。配信媒体がabemaTVメインというのが歯がゆいが、繰り返し視聴にも絶えうるものすごく素晴らしいドラマである。
同作はタイトルもそうなのだが、ティーンズ、どちらかといえば女子からみたジェンダー論を描くドラマで、各回でその主題を絞って展開される。
異性愛者、無性愛者、同性愛者、セックスによるリスク、恋愛を通じて『他者』を理解しようと努力する過程など。
昨今、コンテンツ、受容媒体、それらの受容体系は分化し、グローバル化もした。
「なにかを得たい」と思ったとき、その行動の選択肢はとても多岐に渡る。
その選択肢は、個個人が自由に選ぶことができる時代だ。
選んだ選択肢が連続し、その積み重ねが何であったかを考えたとき、人によっては、例えばセクシャル面の話だと、「異性愛者」の嗜好に当てはまるものなのかもしれない。
僕個人だとそうなる。
が、一歩引いてみてみよう。周囲は、違う選択肢を選んできた者たちであり、今隣にいるとしたら、今現在ここにいるとき、たまたま近しい場所にいるに過ぎないのかもしれない。
そうだとしても、近くにいて、対話ができる機会を与えられたというのは、喜ぶべきことであり、また、その喜びを大事にしたいならば、違いについて学ぶ努力を怠らないことだ。
そして、おそらく愛する人というのは、ほんとうに学びたい、本当に寄り添いたい、知りたいと思わせる人なのかもしれない。
だから、人と人の愛の形は様々なのだということを、思い知らせてくれる作品だ。
毎週楽しみに視聴している。


(視聴終了)
・あした世界が終わるとしても

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見終えた感想

 

アンドロイド子ちゃんかわいい。ジンのフィクサーかっこいい。前期後期できちんと形態変わるのもお約束を踏まえていてすばらしい。
バトルとバトルビジュアル面は本当にすきで、二刀流主体のスピーディな戦闘描写は臨場感たっぷり。

が、「全体の整合」でみてみると、キャラ配置や物語構成、設定面など各方面が絶妙に噛み合わず空中分解を起こしている印象がある。寄生獣でいえば後藤の最期の姿を彷彿とさせる。個人的に、主人公とヒロインは物語に不要であるとすら感じた。
人物ドラマとしての一番のメイン主人公の真・ヒロインのことりの愛というより、ミコとリコの姉妹愛、そして離別の郷愁の方が強調しているように思えたので、ここを掘り下げるほうがバランスとれたのでは。
またミコ・リコという両者の存在は「造られた存在」であるらしいので、ここをドラマとして掘り下げることでSFとしてもドラマとしても深みを増すことができたんでないだろうか。
なんか視聴していてずっとんぐぐ~~~~~ってなってた。

武器系デザインはまじでいいんだよね。瞬時に形成される刀身は物質転送装置のある世界ということで世界設定ともリンクしていて、同時にSFメカニズムの真骨頂でもある「システム描写をスマートにビジュアルで表現する」をしている。
→(ex)「剣を装備する」を表現する。これが特に前提のない世界設定で描写するのならば、キャラクターが鞘に剣を収めている必要がある。シルエット的にそれはかっこいいかもしれないが、剣は当然重い。なので、主人公の普段の動きは重たくなる。
また、戦闘!というときに、それを引き抜いて構えるというシーケンスを要する。
これを、「刀身を形成する」で表現するとする。
こうすると、こちらで表現幅が広がる。まず、剣を携帯しない。キャラクターが移動する際、移動に制約がかからない。
また、刀身形成のタイミングにバリエーションをつけることで、演出の幅が広がる。
・戦闘の構えとして刀身を形成する→実体剣のような「よいしょ→構え」でなく、例えば走りながらでも刀身を形成することができる。「大見得切った劇チックな戦い」でなく、より「敵を倒すための効率を高めるための行動」を表現することができる。この効率がSF的ロジック、「システマチックな表現」である。
・世界設定とのリンク→例えば同作では、物質転送装置のある世界。その描写の細かさがどの程度かはさておき、この作用のおかげで刀身形成が可能だとすれば、そのシステムが軍事面にも作用する者であり、実用化しているというシステムの高度感を味合わせてくれる。そのような世界設定の「におい」を、小道具から感じ取らせてくれる。
...と、ギミックとしてはとてもおいしくて大好き。


最終兵器彼女
オタクにとって、「セカイ系」というイマジネーションはどこか捨てきれないものだろう。
この作品は、「セカイ系」と呼ぶに本当にふさわしい、「セカイ系」の一番中心にくるべき物語構造をしている。この評は、含蓄を多分に含んでいる。良くも悪くも、ということだ。
この作品で描きたいのは何か。
「世界で一番の悲劇の中、世界で一番かわいそうな僕、僕の愛は世界で一番のものだ、僕の妄想の嫁は世界で一番かわいくて、その嫁が世界で一番愛しているのは僕だ」
これだと思う。
認めたくないが、オタク的ダンディズムというか、オタク的美少女象のある種一つの結論は、これであると思う。処女性愛とも呼べるか。

ちせは確かにかわいい。また、か弱い女の子に課せられた鉄と暴力の象徴たるメカニクスを組み合わせるというのは、MS少女、いやともすればワルキューレからの文脈かもしれないし、惹かれるものがある。見た目でいえばめっちゃ大好きです。ちせはどどどどどどどどどストライクだ。

そしてそこにいかような悲劇性、文学性”っぽい”フェイクを織り交ぜようが、主張はこうだと思える。
「この最高にかわいい女の子を心と身体の底から抱けるのは僕だけなんだぜ。いいだろ~~」
しかし不思議なのは、ある種オナニーの頂点のようなものを見せつけられたからこそ、イマジネーションの進歩がもたされたのかもしれないとも思えた。

とても普遍的で、「いやセカイ系つってもそれはちょっと...いくらなんでも独りよがりすぎじゃね?」という感想だ。


機動警察パトレイバー2 the movie

すんごいとしか言いようがない。下手に言葉で言い表すとしょうもなくなる。

間違いなく、「残る」作品であり、観てもらいたいと思える作品。


白夜行(2005ドラマ版)
互いを想いあう依存愛。「捕まらないために」罪を重ねる、利己愛であると同時に利他愛でもある。そもそも、最初に犯した罪の原点こそ、「利他愛」の衝動そのものであった。
罪の意識。背負い続ける十字架。しかし、罪に罪を重ねることで「罪人」そのものへと染まっていく。主人公の一人・亮司の罪と罰の自意識のクライマックスは、自分によって自分を罰するというものであり、それは最初から描かれることであった。
この作品は、とてもとてもコンセプチュアルだ。僕の表現が稚拙なので、あまり文字に起こしたくないのだが、物語構造が本当に素晴らしい。

宇野さんによる劇パト論(メモ)

www.youtube.com押井守からみた「パトレイバー」は、こうなのでは

自分が職業として向き合うことになった現場というものを通じて
職業倫理を通じてプロ意識に目覚めて社会化されていくとは、当たり前のこと
→フィクションを構成するには弱いと感じる。
その辺のコンビニや雑居ビルオフィスでも、日常茶飯事で起きていること。
そこにロボットや、コンピューター犯罪とか、そういったものを導入して描くようなことではない。正直新社会人のブログでも読んでろよって感じ。

→劇場版パトレイバー1は、ゆうきまさみ出渕裕のそういった青臭いところもうまくスパイスに使って映画として成り立たせている。それは、押井守という演出家がいるからだ。
押井守の映画にとっての野明や遊馬の青春群像というのは表層に過ぎない。氏が真に描きたいのは『都市論』である。

(ここから都市論の話へ)

 

 

 

全共闘世代がバブル社会を批判する

・原作「うる星やつら」への、「ビューティフルドリーマー」で描かれる同作への批評性

→同作で描かれるキャラクター劇は、消費社会(バブル社会)の構造そのものであり、アメリカの核の傘に守られた『他者を排除する側に立つことによって得られる平和』である

という見方

 

僕個人の私見
宇野常寛氏のこの評論は、『劇パト2』での荒川の主張に通ずるものがある。

 

www.youtube.com

荒川「後藤さん。警察官として、自衛官として、俺たちが本当に守ろうとしているのは何なんだろうな。
前の戦争から半世紀。俺もあんたもこの方、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。
平和...。俺たちが守るべき平和。だがこの国のこの街の平和とは一体何だ?
かつての総力戦とその敗北。米軍の占領政策。ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦。民族衝突。武力紛争。
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺たちの平和の中身だ。
戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な対価を、よその国の戦争で支払い、そのことから目をそらし続ける不正義の平和。

後藤「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。
不正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ。」

荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのは分かるよ。かつてそれを口にした連中に、ろくなヤツはいなかったし、その口車に乗って酷い目に合った人間のリストで、歴史の図書館はいっぱいだからな。
だがあんたは知っているはずだ。正義の戦争と、不正義の平和の差は、そう明瞭なものじゃない。
平和という言葉が、嘘つき達の正義になってから、俺たちは俺たちの平和を信じることが出来ずにいるんだ。
戦争が平和を生むように、平和もまた、戦争を生む。
単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実態としての戦争として埋め合わされる。そう思ったことはないか?
その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れたふりをし続ける。
そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると。」

後藤「罰?誰が下すんだ。神様か?」

荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知り、何一つしない神様さ。
神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。俺たちが奴に追いつけなければな。」

(余談:おそらくこれが、押井守本人の主張も混じっているものなのだろう。

 

*1

 

 

宇野さんの押井作品の見方に則ると、

押井守の「うる星やつら」、「パトレイバー」に対して、それぞれこのように見ていると考えられる。

うる星やつら→若者たちのどたばた劇。その劇を成り立たせているのは、暴力や血といった痛みをすべて外部へと排除させることによって成り立たせている。

パトレイバー→青春群像主体。だがこれはロボットなんてガジェットを用いずとも成立するし、ただのありふれた話じゃないか?

 

僕は、作品の潮流に対する「アンチテーゼ」を更新し続けることによって、そしてエンターテインメントとして「楽しさ」をも提供することによってこそ、その作品は語られ得る作品になると思っている。

押井守はこれらの作品を、アンチテーゼどころか、もしや嫌っていたかもしれない。

それでも商業作家としてその仕事を完遂し、エンターテインメントとして成立させたからこそ、アンチテーゼ性をも含んだ「作品」として発信された。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

う~ん、、正直胸に刺さるな...押井氏の主張。

「お前ら若者ちゃらんぽらんしてんなよ。辟易するわ。その現状を形作ってきた文脈や歴史に対する関心でなく、その時の表層を追っかけることにだけ耽溺するのな。そういうやつの主張は正味どうでもいい」

というような事を言っているように聞こえる。

もはや、若者というか、「埋没してしまった若者」に対し、対話はするだけムダと思い、当事者意識、俯瞰意識をもった者同士でのやり取りにのみ注力している...ようにみえてしまう。

そんなことされると僕はこう思う。

「ひええええ大人こわいよ~~~~!!!!!!!!」

 

としか、今は考えられないし、まともな対論を自分の中で持ちえない。

が、そんな自分が情けないのだ。

今思うのは、こういった作品への「対論」を自分の中で育てられるようになりたい、という事だ。

 

 

*1:

連想したもの

「モニターの向こうに戦争を...」

 

Zガンダムカミーユあなたはいつも傍観者で人を弄ぶだけの人ではないですか!」

 

 

「誰もが神様みたいなもんさ。」

 

→映画『何者』より「頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな」

能動的に、やさしくするということ

そしてそれは、相手に与えるだけでなく、

返報性を求めるためだけでない。

 

愛することにより、与えた充足を与え、

それは、相手をより善くするためのものであるということ。

 

与えられたものは、幸せになるために与えられたと自覚し、自らの利益というより、自らそのものの前進のためにそれがあると実感できること。

 

それは、互いが気持ちの良いことなのだと思う。

 

誰かに何かを与えた、与えたと自分は思った時、「これなら相手はこうしてくれるかもしれない」ということを望む。…とする。

でも、相手に対する「してくれるはずだ」というのは、結局は利己的行動なのだ。

だって、与えて、お返しをもらうことによって、「相手が自分のためにいる」ことを自覚することを画策して、「与える」のだから。

 

そうでない「与える」とは、何なのだろう。

それは、衝動的なことなのだと思う。

 

と同時に、考えた末の「与える」でもあるのだと思う。