チクショウチクショウ、仕事してるより趣味にふけっていたり勉強してたりする方がよほど充実しているって思える!!!!
究極的に、それは仕事への向上心のなさだよ、惰性でしか仕事能力は上がり得ない、それでは…!
異性においても同性においても、運命共同体としての関係で仲良くなりたいという欲がある。
それはつまり、同じコミュニティに属して、同じ事に取り組むことで「同志」としての連帯感から好きになりたいとか、仲良くなりたいとかいう気持ちがある。
だから、僕は、本当は友人とは、たんなる話し相手でなく、できればそのような関係の仲間として接したいと思うのだ。
共闘者の関係として…という仲間のあり方が僕の理想だ。
異性に対しても、そのような関係からの情愛を望みはするが、本能的にそうでない異性に対しての欲を抱いてしまうことがあった。
これは、成就する確率としても低いし、無謀であるということも本来分かっている。
しかし、宝くじに当選してしまえば、というような気持ちで声をかけたりもする。
僕は、一人の人に多くを求めすぎる。
それには、押し付けがましい期待だとか、理想的でありすぎるとか、ロマンチストでありエゴイストの欲求でしかないという自責の念もある。
しかし、反射的に、他者への期待をする。してしまう。
自身は期待に応えられる働きや、魅力を見せているかということはないがしろにして、だ。
そういう、他人へどこまでの欲求をすれば良いかという感覚は、本来ならばもう割り切りやバランス感覚を養っていなければならないだろうに、そうなっていない。
子供じみている。
生産性のなさすぎる人材と化しているようで哀しい。
システムがよくできた会社は、その会社の人間も善い成長が見込まれる可能性が高いです。
システムの策定が曖昧で、結果拘束時間だけが異様に延びてしまうような子供の会社だと、ジレンマや負の循環など、諸要因からシステムのパフォーマンスも悪ければそこに属する人間もやはりそのシステムなりの人間にしか大抵はなりえない。
話は戻るが、なぜシステムがよければ、人材もよくなるのか。
答えは簡単で、かつてシステムを作る人間が、そのシステムに準じることで健全に成長できるような業務フローを作ったからです。
僕のいる会社、正直ね、もはや会社とすら呼ばないようなシステムの策定が曖昧な代物なんだよ。
たいていの社員は、「そこに異議を唱えて席を外されるともはや食い扶持がない」立場の人間ばかりだから、会社の犬しかいない。
そのような反吐がでるような労使関係の元になりたっている。
そして、僕も会社の犬である。
最近最終回もみおえた。
この作品を評価する人間はいないだろう。
「続編作品として」の作品質の度合いがどうとかでなく、絶対的に構造が歪である。
作劇内で繰り広げられる個々の事象は事象としての展開に過ぎず、「文脈のパーツ」もしくは「文脈そのもの」としての体を成していないのだ。
前作を踏襲する、続編としての意味合いをるもった「2」というナンバリングも、その意味性を想起させることが非常に難解であり、直感的な「続編である」という理解が難しい。端的にいえば、つながりがわからない。
前作「けものフレンズ」は、既に「過去に何らかの一災厄が起きたらしい」世界から始まり、それとは(当初は半ば)無関係にかばんちゃんとサーバル始め一行の旅が始まり、「過去の出来事」と「現在の冒険」のつながりは、「あえて」ぼかされるものだった。
その、「あえて」の部分に関しての演出が非常に巧みであり、説明的かと思えばそうではない、作品世界ののどかさに反して物騒なワードが飛び出してきたり、背景オブジェクトとして、何らかの機会の残骸であるとか、人類文明が確かにあったことを想起させたり、その「ギャップ」に面白さと意味、そして作品の本筋に最終的に無関係でなく、かといって全て明かされるでもないという、半ばあやふやながらも連関しているという「不思議さ」のような表現をしていて、この不思議さは、ストーリーに最終的に落とし込むことで一貫性を以って一要素、一魅力たりえた。
「2」においては、それらオブジェクト等、「退廃的要素」はたしかに存在する。
ただ、「存在する」に留まっている。ストーリーの本筋とは、本当に無関係に、「要素」として描かれているに過ぎない。その意味性を想起させるワードなども一切語られない。
これは、たんなる前作における「ポストポカリプス的」という要素を、たんなる記号とみなし、模倣し、配置したに過ぎないからこそ生じる、「単なる配置」の無機質さ、つまらなさになってしまっている。魅力たりえないのだ。
上記のような話は一例である。ここの要素についての評価を話すと、非常にキリがない。
絶対的な作品のストーリーの怪しさは確かにあり、ましてや「続編としての価値」をも損ねてしまったものだから、本当に「良くない」作品となってしまったのだと思う。
全体的に、「それが有ることに考察をした、事象同士が連関することで生み出された絶妙な不思議さ」を、「個々の事象」として模倣し、それぞれを独立させて表現してしまったことで、構造としては歪で、かつ無機質な印象を与えるものになってしまった。
個人的に思うに、ちょっと良くない意味で、「前作に忠実」でありすぎたのだと思う。
忠実であるのは、一要素だけでよかったんだよ。
例えば、「2」は思い切りコミカルな、ギャグテイストに振り切るという作品にしたとする。
全体的な舵取りはそのようにするが、
「けものはいてものけものはいない」という根底の作品哲学だけはしっかり守るとか。
作品を描く際、舞台は極論、人間ひしめく現代のどこかでも良いだろう。
そんな中で、サーバルはじめフレンズたちがどたばたを繰り広げる。
どたばたの方向性は、例えば最終的に、フレンズ同士の絆の強化…という具合に閉められるとか。
続編としての継承すべき部分を間違えたと本当に思っている。何か一つでも、作り手なりに考察した前作「けものフレンズ」の根底の作品哲学が何であったかを、単純にでも良く、一つだけでも答えを見出し、それを作品の表現軸として策定し、それに基づいた描写をすればいい、本当にそれだけのことなのだ。
これなら作り手にも作品の表現幅は広がるし、前作との差を、エンタメとして主張することができたろうに…当然このやり方は、一期「けものフレンズ」こそが至高であるとするファンからは反発を受けるだろうが、評する人間は必ず産まれる。
全体として総括すると、「プロダクティブな作品だったな」という感想。
前作がアニメとしては本当にナマモノのような制作体制と人気の発火具合だったから、なおさらその印象が強い。
でも、いいところがある。
フレンズのモデリングはめちゃめちゃ可愛い。萌え方面に振り切った印象あるけど、輪郭の柔らかさとか本当に神がかり的ディフォルメだと思うし、吉崎デザインの秀逸さがよく伝わる、実に良いモデリングだと思う。
ビジュアル面は本当に言うことがない。一言でいうと、ブヒれるけどフレンズとしてもかわいい。
OPもいいんだよね。
ただ、本当に「作品哲学」の考察の足りなさが致命的で、その無機質さが観る人間にとっての嫌悪感や拒否反応などを刺激する。これがこの作品の致命的な部分だ。
これがあるから、いい部分があったとしても、正常な価値観が失われ、拒否反応からくる批判精神ありきの、重箱の隅をつつくような、罵倒でしかないような言葉さえも投げかけられてしまう。ある種悲劇の作品であるともいえよう。擁護する気あんまないけど。