はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

センチメンタル

そのような波が、押し寄せる時期がなぜかある。

ふとした時に、その波が心の中で押し寄せて、大きくなって、考えずにはいられなくなる。

 

そして、その答えは毎度出ない。

答えを求めていないのだ。いつしか、答えを求めることを辞めてしまった。

 

つまり、「考える」自分が、センチメンタルになっている自分に酔っているだけなのだ。

今、このようにして、文章を打っている現在でも。

 

このような精神性は、いつも否定したくなる。

唾棄したく思うし、幼稚だと断じたくなる。

 

思春期の頃からだろうか。

そのような物思いの衝動にふけることはあろうとも、根幹の主張は変わっていない気がする。

違うのは、想いを綴る言葉や、その角度。

それらが違うだけ。

 

…しかし、気づいたことがある。

これが、僕の裸の精神状態であるということだ。

 

妙なペシミズムに捉われ、しかしながらそこに現実的なテイストを取り入れる。

極度なまでに主観的な被害妄想という体にはしない。

つまり、「僕のせいであの人はこうなった、だから僕は罪人だ」というようなロジックを持たないということだ。

 

僕の裸の精神状態の救いは、リアリティを取り入れているということだ。

これがなければ、とうに、もっと、実生活に支障をきたすほどの、病に犯されていただろう。

 

 

そうはならなかった。

僕は、ガンダムが好きだからだ。

 

 

 

 

…………

 

センチメンタルになるとき、

誰かから、情を向けられたことをふと思い出す。

「大丈夫?」と心配されたこと。

「〜〜しときましたよ!」みたいな気遣い。

 

僕個人に、贔屓的にそれをしてくれたと気づいたときの、ちょっとした恍惚というか…嬉しい気持ち。

 

 

「してくれた」ことに対して、「してくれた」人に対して、僕のリアクションはどんななんだろう。どう映るのだろう。

 

そういう気遣いに、僕は、親のことを思い出したりもするのだ。

幻影が見えるかのように、姿を浮かべる。

 

生活の中で、外的刺激は多いのだから、そんな気持ちもすぐに移ろいでしまうのだけど。

でも…そういう気持ちを深掘りすると、「想われていた」事実は確かにあったのだと感じ、涙を流してしまいそうになる。

 

でも僕は、父に対しても、母に対しても、振り返ってみると心底愛せる訳ではない。

妙に無関心であるように見えたり、こうしてくれたって良かったのに、という…これは期待の情からくる想いだ。

コミュニケーションの不全性だってそうだ。

薄いネグレクトが続いて、熱を抜き取られたような関係性と、そのような精神性しか持ち得ない人ができてしまう。

 

想うことは、思い出せば尽きないのだ。

 

それでも、なにかを還元したいと思う。

それらは、過ぎたことだから。

 

だから、衣食住の場を提供してくれたことへの感謝は、しきれない。しかし、そのことをただ「ありがとう」という言葉で片付けるには、どうも月並み過ぎて、言えない気恥ずかしさがある。

 

…………

 

 

僕の両親の関係は、冷めている。

 

僕には姉がいて、姉は、心の病を患っている。

 

僕が中学生の時だ。

 

母が姉の育て方について、激しく悩んでいるときがあった。

父は仕事に疲れていた様子だから、事をやり過ごすような対症療法的な言動をするのみで、支える、という様子を見せなかった。

 

しかし母も母で、父の強権的な態度、物言いには従うのだった。父は、(あまり使いたくない表現だが)地頭の良い人間だからだ。母は、それを感づいている。

だから、亭主関白そのもののような気質の父には、従う。母が意見しようとも、父はそれを低い声と、重苦しい抑揚で否定する。だから、母は対案を出さない。

 

かくして、そのような、情があるのかないのか分からない向き合い方を、両親は姉にし、そのまま時が流れた。

 

このようなやり取りは、姉のいない時、リビングで行われているのだった。

 

リビングの隣に、僕の部屋はある。

当時は、僕の部屋とリビングを隔てるものはブラインド一枚程度で、遮音性などまるでなかったものだから、両親の会話は筒抜けだった。

 

会話を聞くたびに、萎縮した。

そして、罪悪感が芽生えた。

このリアクションは、両親の会話が漏れ聞こえる度に、例外なく常に感じることだった。

 

萎縮するのは、それが常に、重苦しいトーンで繰り広げられる会話だと分かるからだ。

時折、両者の不備に対する指摘のし合い…粗探し合戦にも似た事を始める。

そして、僕がそれを聞いているとなぜ分からないのだ、という憤慨。

子が聞いているかもしれない場では、親は親らしくいて欲しかったという願いからの想いだ。

 

僕の罪悪感は、単純に、「常に盗み聞きしている」感覚にとらわれて、それが良くない事だと思えたからだ。

そして、話の内容から、「姉が苦しんでいる」事実が分かる。にも対し、僕は何のアクションもしないというか…させてもらえなかったのだ。

姉に対する、僕はなにも働きかけていない、という罪悪感。

これは、今でも消えない。「自分のせいで全てダメになった」というほどは思わないが、責任は感じる。

 

ある時、母に言った。

「僕、姉ちゃんになんかできる事ない?」

母は、こう返す。

「お父さんとお母さんでなんとかやってるから、学校頑張りなさい」

僕は、もやもやした。

しかしその感情を、例えばゲームなんかに没頭することで忘れた。

そして、自身の感情にフタをして、仮初めのような、典型的なオタクと化していくのだった。今の僕は、それが肥大化しているに過ぎないのかもしれない。別にそれでいいけど。

 

とにかく、姉に対する両親のやり取りからもだが…

僕の両親の関係は、僕が物心つく頃から、既に完全に冷え切っていて、少しの揺れ動きを見せながら、変わらず低空飛行を続けるのだ。

 

「父は、いない方がいい」と、母が漏らすときがあったほどだ。

そして、僕はそれを、愚痴として直に聞く機会があった。

そのようなコミュニケーションが生じる家庭であった。

 

 

だからだろうか、僕は人の愛し方が分からない。

分からないし、本当は、極端なまでに人から好かれる事を、愛される事を望んでいる。飢えている。

「人」とは、友人、異性、自身と関係のある諸々の存在に対してだ。

 

 

 

でも…そんなことは、誰だって、生まれた環境に対して、何らかの問題、ハンディキャップは抱えているものだと、ちょっと感じるようになってきた。

そして、御多分に洩れず、僕もその一人なのだと。

そう思えると、「僕は哀しい存在なんです」なんて言ったばかりなのは…虚しいものだとも思える。

にも関わらず、こんなに独白をしてしまった。

分かってはいても、吐き出したくなる時があるからだ。

それが、センチメンタルという感情だ。

 

…………

 

アムロ・レイを想い出す。

10代も半ば、多感な時期に戦争への関与を余儀なくされ、多くの修羅場を経てなんとか生き延びる。その過程で、かつて別れた母カマリアに会うも、戦いを経て変わった自身の様子に落胆される。

そして、アムロ自身の事情もあり、母との離別を余儀なくされる。「なんて情けない子だろう!」「お母さん、お達者で…」アムロが母と交わした会話はこれが最後で、ふたりは生涯会うことはなかった。

また、戦いの最中訪れた中立地帯で、父テムとと偶然にも再会を果たす。

父は、かつて開発者として切れ者だった様子とは打って変わって、宇宙病の影響か、とうてい実用的とは言い難い回路の開発に執心していた。

そんな父の背中を見て、自分と父の絶対的な心の距離を痛感する。

再び戦闘に駆り出されたアムロは、「自分にはどうしようもない」という諦念を抱き、父とも生涯の離別をするのだった。

そして父は、アムロのあずかり知らぬ所で命を落とす。

「酒に酔った勢いで部屋を飛び出し、階段を踏み外して転げ落ち、衝撃で死亡」という様子だ。文字通りの転落人生として幕を閉じる。

 

アムロは、両親との関係が良好だったとも、恵まれた家庭環境で育ったとも、到底言い難い。

父も母も、別居をしていたのだ。そこに、父母の精神的距離だって窺い知れよう。

幼い時期にそんな両親をみてしまったら…後ろ向きな思いはせずにはいられないだろう。

 

しかしアムロは、ニュータイプたりえたし、(ベルチル版では)子を設けることさえできた。

つまり、アムロは、人を愛せたのだ。

 

ホワイトベースという疑似家庭の中で、「生き延びるため、一緒にならざるを得なかった人たち」と、疑似家族として上手くやっていけたことで、人生を拓くことが…優しさもニュータイプの武器(強み)であると信じられる男になった。

 

彼は、生まれの不幸は嘆かなかった。嘆く暇がなかった。

それに抗ってみせ、そして、ようやっと伴侶を得た。

その伴侶との間に子を設け、心底幸せであると実感することができた。

 

この幸せに、父がどうだ、母がどうだという事情は関与せず、れっきとしたアムロ個人の願望と働きによって、幸せを得ている。

これが、真理であると思う。

 

 

僕は、アムロ・レイに憧れている。

彼は、自身の人生を歩むために、家族に対して割り切りを見せた。

僕も、それを考えるべきだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消化物たち

休日にやってたこと。

①REガンブラスターをいじった

②えっちなゲームを買った。

③友達と映画を観に行った(+買い物)。

 

 

 

①REガンブラスター

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ガンブラスター部分塗装。プロポーションも成型色もほんと完璧。

次はV2ABだ~~。今月中に完成させられるだろうか...。

せっかくカメラもあるので、V2ABも完成したら、V2AB・ガンイージガンブラスター三者ならべて写真でも撮ろうかな~~。

 

 

 


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silvy

 

画像の2つ。

さよならを教えて」、「奴隷との生活」だ。

実は、人生で初めて成人向けの媒体におカネを出した。

 

●「奴隷との生活」

一気に上記の2つを購入し、最初にこちらをプレイした。

連休の前半の日、時間を忘れ、夕方から深夜までずっとやり続けてしまった。

(先ほどキャプ画像を貼るためにゲームを起動したが、シルヴィとの会話に脳をやられ、そのまま少しプレイし続けてしまったくらいだ)

そうのめりこむまでに、シルヴィとの甘いひと時が破壊力があるのだ。

そして、このような文章を書いていると、少しずつキーボードを打つ指に妙な力が入ってきてしまう。妙な昂ぶりが出て、止まらなくなってしまいそうなので、この記事ではこの程度で記述を終えることとする。

一言で感想を言うならば、

「あぁ^~ あぁ^~ あぁ^~(脳がとろける音)」だ。

 

僕には、情動を抱く異性に対する、強烈な支配欲がある。

しかし、社会的動物たる人間には、潜在的衝動を抑制する理性が強く働く。

それは時に、その衝動があったことすら忘れさせるほどに強いのだ。

 

が、抑制はいくらしようが、ふと落ち着き、自身の情動と向き合ったとき、それを思い出す。

僕には、やはり異性に対する支配欲がある。と。

しかし、実社会で、仮に異性と昵懇の仲となったとしても、それをしたいとは、あまり望まない。

理性がフタをしているのだろうし、また、現実では、個々人の意思が相互に絡み合い、行動として表出し、それに対するリアクションを重ねる、その繰り返しであるドラマを望んでいるからだ。

そのドラマの中に、自分がプレイヤーとして組み込まれることを望んでいる。そうするには、社会に属するとき、本能そのままに声を上げ続けては、簡単にドラマの芽が摘まれてしまう...だろう、という推測がある。

だから、実像を持つ他者に、支配そのままを異性にぶつけることを、望んではいない。

 

しかし、これはあくまで、「社会的動物としての自分の思い」だ。

自身の本能の言葉を綴ろう。

「ただ僕の全ての喜怒哀楽の感情を、本質から理解してほしい。そしてそれを、僕という個人の、代替不可の魅力として受け止め、自身がオーガズムを得る際の糧としてほしい。そのような内面への好意と、物理的な肉体___ペニスをはじめ、腕から手、顔、脚...それらすべても、魅力として、愛するべきものとして、ただ、全て、余すことなく受容してほしい。内面・外面的特徴から付随して生じる全ての出来事も、全て愛してほしい。そのうえで、自身を射精させるに都合の良い肉体(外面的諸特徴)を持っていてほしい。それら全ては、『僕のものである』という被支配意識を完全に自覚し、全く肯定的にそれを認識していてほしい」

これを言葉として綴るなら、

「あなたの全てを愛しています。私にとってあなたが全て。私はあなたのものです」

だ。これが僕の本能の欲求だ。

しかし、実社会でこれを完全に実現することは不可能だ。

だから、架空の認識だと理解したうえで、それを求める。

そうなると、その欲求を満たす架空の装置が必要となる。

「架空の装置」____『奴隷との生活』は、僕にとってそれを満たしてくれる、かなり最高のゲームである。

 

 

●「さよならを教えて

元々興味があった。いわゆる「鬱ゲー」として名高い本作で、主人公が躁鬱気味というか、パラノイア気質なのが、僕の興味をくすぐった。

 

画像のキャプもそうであるが、画面上で進行している出来事が、主人公の内面なのか、それとも、客観的事実として発生していることなのか戸惑う。

しかしその夢遊病的な、浮遊的感覚が、とても心地よく感じてしまう。

その感覚は、共感できるからだ。どこからが現実で、どこからが空想なのかわからなくなる感覚。

それは今までの人生で、特に思春期で幾度となく経験し、そして現実は、どうしようもなく現実でしかないという残酷な事実に酷く絶望をする。

それでも現実への空想感を何処か求めてしまうという、「どうしようもない」情動。

それを想起させ、強く共感できる部分があるからだ。

 

極端な話をいえば、その究極的な共感を得られれば、この作品に僕はストーリーを求めない。ただプレイし、その感覚を味わうだけでいい。それ自身が僕にとっての精神的な自慰行為となるからだ。

 

が、これはストーリーを持つゲームである。

当然ながら、ストーリーを進めたい、事の顛末を知りたいという欲はあるので、普通に現在プレイ中。

何が起きているのかよく分からないが、「主人公の様子はどうやらおかしいらしい」ことが少しずつ浮彫になっていく流れに、ちょっとゾクゾクする。

 

 

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ガンダムNT漫画版

実は買っていなかった。食いつくように買ってしまった。

プロローグのヨナ・ミシェル・リタのプライマリスクール時代のエピソードは心にクる。

こういう補完があるだけで喜べてしまう。このような喜び方は、もはやオタクのそれである。

 

●彼方のアストラ

このマンガがすごい!」で大賞なんだそうだ。しかも、SF。

なんというか、僕はSFというジャンルが好きでありながら、そのテーマは刷新されることなく繰り返されているのではないかという疑念と、だから廃れている、人を選んでいるのではないか、という絶望があった。

しかし、彼方のアストラは絶賛されている作品であり、人気もあるということだ。

これが嬉しいことだ。「SFは斜陽である、マニアコンテンツである、舞台装置としてのエッセンスに成り下がってしまった」という僕の認識に風穴を空けてくれる事実だったからだ。

そんなわけで、時間的・金銭的リソースを割くべきかと購入を渋っていたが、買った。

 

某所で絶賛されていることも知ったから、というのもある。

 

しかし、まだ読んでいない。

消化物は、なるべく一点集中で、これやったら次これ、みたいな感じで浸りたいからだ。(現在は「さよならを教えて」プレイ中なので、それ終えたら読む予定)

 

ゴジラ キングオブモンスターズ

今年2回目の映画(1月にガンダムNT行ったきり)。

実はここの感想一本で記事を書くべきな気がするのだけど、記事として書きたいことが他にもあるので...書くかは分からない。

一言の感想を書くと、「まぁ、面白いんじゃね...?」だ。

 

というか、僕は、特撮オタクでないので、正直こういった映画(おおざっぱなカテゴライズは、「巨大怪獣の特撮」「スペクタクル系」だろう。)をどのような評価基準で観ればよいか困惑していることもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガンブラスターいいわぁ〜〜

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ガンイージと並べる。配色(とツインテール)あるだけで全然印象違う。

 

ガンブラスターの好きなところ。

強化版でヒロイックになったのもそうだが、それに乗るのがオデロやとトマーシュという、「男の子」であるということ。

作品内の男性ヒーローのヒエラルキーとして、ウッソが絶対的頂点にいるとしたら、その下にオデロとトマーシュがいるという構造だ。

ヒエラルキー構造いえども、ヒーローとしては、つまり主人公としてはそれぞれ独立した立場を魅せているのが素晴らしい。

 

Vガンの「少年隊」みたいな雰囲気本当ガンダム作品でも独特だと思っている。

周囲に大人がいる組織の中でなのに、それを描いているという。

つまり、独りよがりな夢物語としての、変に都合を無視したパワーバランスのおかしい、強すぎる子供たちとかでなく、整合性をとったうえで、戦う子供たちを描いているという。

 

で、ヴィクトリーもガンイージ(ブラスター)も、絶妙に童顔フェイスなのよね。

これが、やはり、「少年の器」たるモビルスーツの象徴を示すに本当に強く作用していると思う。

だから、これらの機体にはどこか暖かみを感じる。母性的ではないが、しかし包容力のある何か。

 

 

とにかく、ガンブラスターは素晴らしい。

少年が乗るから素晴らしい。(なんか危ない一文)

 

 

うすうす思っていて、実感していることがある。

森羅万象に対して、良い、悪いという価値観は本来ないのだと。

 

つまり、世の中の事象は、善と悪という二項対立で片付けることができない。

これは、絶望的な事実だ。

 

何かを悪と決め、断罪することができないのだから。

 

この絶望的な事実を、僕は自身の考えの中に落とし込めていない。

 

現実的なシチュエーションで記述する。

 

他者から、理不尽と、不愉快と思しき指摘等を受けたとする。

 

これは、一概に、不条理と片付けて良いのか、ということだ。

 

そのような状況が、どのようなバックボーンから産み出されたのか。

そして、指摘してきた他者は、その状況を声として表出化させた、スポークスマンに過ぎないかもしれないということだ。

 

ただ、これは解釈論ともいえる。

 

当人の気持ちでそれを言ったのかもしれない。

そのように言う、風潮があったのかもしれない。

 

 

 

ああ…わからない

僕は、何を言いたいのだろう

 

 

僕は、落ち着きたいと願っていて、そうする力をつけるために、その考えを補強してくれそうな本をみつけ、それを読んだ。すがったとも言えるか。

事実、支えられた。

それは、哲学書であったり、ロマンスと暖かみを覚えさせてくれる知識であったり、架空の物語であった。

 

そして、その感動を、現実世界とのコミットメントを成そうとも考えた。

 

考え、少し、繋げる努力をした時期も、あったかもしれない。

 

しかし、今の僕は、もはやただの消費者である。

ただの本読み、ただの物語好き、そんな動物である。

 

 

懺悔の気持ちと、虚しい気持ちがある。

 

整理がつかず、言語化しようのない、衝動というほどでもなく、温度のない溶岩が心の中で流れ出るかのような、心地は良くない感覚に常にとらわれる。

 

そして、その心の中の流動が、僕に呟かせる言葉がある。「いってしまえ」とか、「死んでしまえ」とか、「壊れてしまえ」とか。

明確な何に対してではない、ただ出てくる言葉だ。

 

 

……

 

 

僕はまともでない。

「健康な状態で、苦しいという事実を自覚し、苦しんでいる」。

 

 

 

 

「ベルトーチカ・チルドレン」読んだ

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今更~~な感じ。

ひそかに、数週間前にamazonでポチって購入していた。

それを読了した。

 

 

富野監督の文芸作品は、10代前半の頃に読んだことがあったのだが、実は中々クセが強いな...とか、言い回しが難しいな、思っていて、途中で読むのを断念していた。

それから10年ほど経った今になってようやっと、(途中途中難しいなとは思うことはあるが)それなりにすんなりと読了することができた。

 

(本編の感想)

●チェーン→ベル

映像作品『逆襲のシャア』との大きな違いは、アムロの伴侶がチェーンからベルトーチカになっているということだ。

個人的にはこれは結構嬉しいことで(チェーンを否定しているわけではない)、かつて付き合いのあった女性とそのまま関係が深まり子を設けるという所までいっている、という事実に、アムロという人間の時間の流れと厚みを感じさせて、人物としての肉感がをさらに感じさせてくれるという個人的な思いがあるからだ。

 

●退屈なところ、展開のちがい

ただ、個人的には、プロローグを除いた前半のほとんどは、映像版と変わらない。だから実は、途中まで読んでいて少し退屈だった。もちろん、文章ならではの世界設定のディテールの掘り下げがあるから、それは楽しめるのだが、これはマニア的な楽しみ方なのではないだろうか。

しかし、終盤からはかなり展開が違う。

グラーブ(ギュネイ)やクェスが倒れるタイミングが違うし、ロンドベル隊はシャアの艦隊に最後まで劣勢状態であるということが鮮明に描写される。

しかも、最後の最後までアムロは、作戦単位でも戦闘単位でもシャアに苦戦する(僕はアムロ派なので、読んでいてちょっと悔しかった)。

 

●子がいるアムロ、父となるアムロ

アムロに子がいる」という、たった一つそれだけの事実だけで、少しずつストーリーは変貌するのだろうと思う。

また、その事実があるおかげで、アムロはこの作品ならでの台詞を口にする。

「万全の段取りを組んだし、赤ちゃんのためにも勝つ...違うな。シャアには、ベルトーチカのような女性との出会いはなかったし、子供も手に入れられなかった。しかし、ぼくには、ベルトーチカとお腹のなかの赤ちゃんがいる。この違いは、絶対的な力だ」

この台詞を読めただけでも、ものすごーーーーーく満足できた。

アムロは、自身が大人になったということをとても自覚している。さらにいえば、父になったということの実感だ。

この自覚が、主人公としての成長の重要なファクターだと思う。また、『子をもうけた』という事実がなければ、こう思うことはできないだろう。

が、これを映像作品として描いたとき、エンターテインメントとして、架空の世界への逃避先としての主人公の快活さは途端に失われてしまう。

父となる実感を描く必要が出てくると、その描写に重きを置かなければいけなくなり、その分、「戦士として」戦いを描くシーンを省かなければいけなくなる。それは、ヒーローとして主人公を配置する意味が失われる。...といった要因から、富野監督は「子持ちアムロ」という要素は劇場版ではオミットしている。

これは、正解だと思う。事実、媒体を享受しているときの「気持ちいい~~」という感覚は、ベルチルより、映像版の方が圧倒的に上だ。νガンダムは多少の苦戦はするものの、作中の誰よりも明らかに技量が上とわかる挙動をしてみせるし、易々と敵を突破し、あしらってみせるからだ(シャアとはほぼ互角だが)。

ベルチル版は、νガンダムの出番も少々削られているし、割と苦戦する。ベルチルのみに出てくる必殺兵器「ハイパー・メガ・バズーカ・ランチャー」も、エネルギー供給チューブを何度もクェス達に切られて不発に終わる。

シャアとの交戦時は先に一撃を受けたのはアムロの方だし(νの肩にビームを喰らう)、次には直撃さえくらってしまう。これは赤ちゃんが防いでくれたのだが。

そんなこんなで、ベルチル版アムロは、もちろんロンドベルのエースということは十分わかる働きをしてみせるが、イヤに現実的に苦戦をしてしまう。

この苦戦を、「父というアムロ」という実感を沸かせるファクターとして捉えられる想像力を持たなければいけないのが、ベルトーチカ・チルドレンという作品だと思う。

しかし、その想像力を以って作品に臨んだとき、より「アムロ像」を実感できる愉しみを得られるのが、文芸版「ベルトーチカ・チルドレン」というワケだ。

 

●シャアとナイチンゲール

アムロと対比して、シャアを考えると、シャアという人物像がより刺々しく感じられる。

作中での彼の最終的な求める所は、「真の意味でアムロとの優劣を図って、自身が勝つ」ということだ。

しかし、その出自や自身の政治的需要といった、元から付きまとう「しがらみ」が、シャア自身をわからなくさせる。「地球の人類を粛清し宇宙に上げ、人類全体のニュータイプ化を図る=アクシズ落とし」は、本音でもあり、建前でもあるのだ。

 

そのシャアの抑圧だとか、高慢さだとか、競争心だとか、複合的な感情が一緒くたになって出来上がった怪物が、人型とはややかけ離れた風貌をもつMS「ナイチンゲール」だ。シャアという人物像の象徴としてのナイチンゲールは、意外とアリな気がしてきた。また、映像作品じゃ動かしづらいであろうゲテモノMSを登場させるというのは、文芸作品ならではだ。

また、ナイチンゲールという名の詳細についても、冒頭の見開きカラーページで記述がある。「別名はサヨナキドリ、その鳥についても、ある場所では愛を告げる鳥とも、またある場所では死を告げる鳥ともいわれている」などだ。

 

νガンダムという名称は、メタ的事情を抜きにして、作中設定だけを考えれば、とても実務的な名付け方をしている。ギリシャ数字ガンダムの製造番号を数えたとき、13番目に位置するからν、そしてそれにガンダムタイプを意味する「ガンダム」の名を冠したというだけだ(ざっくりとした説明だけど許してください)。

 

対して、ナイチンゲール。これは、造語ではなく、古くからある固有名詞である。

人名としてでもあれば、先の「サヨナキドリ」の名としてもある。

突き詰めると、その名は様々な事象の象徴であるということが分かる。

νガンダムは、スタンダードな人型をしているが、ナイチンゲールはそうではない。

つまり、ナイチンゲールには、「特徴的、象徴的要素」が多い。

記号的なν、象徴的なナイチンゲールという対比構造とも取れる。

これが、搭乗者であるシャアの情感をより豊かにしてくれるものだと感じる。

 

そして、シャアは地球人類に対して「死を告げる(ある場所にとってのサヨナキドリの象徴)」ために地球圏に飛来してきた。深紅のMS、ナイチンゲールを伴って。

 

●シャアの哀愁

ベルチル版では、シャアとアムロ、二人の今わの際の会話が異なる。

というより、二人は会話をしない。νガンダムを中心として放たれる、人類の心が結集して放たれたような白い光をみて、ただ圧倒され、それぞれ独り言を漏らすというような具合だ。

 

そして、シャアはその光を見て思い出す。妹のアルテイシアのことを。

「......しかし、アルテイシア、この結果は、地球に住んでいるアルテイシアには、よかったのだな......」

 

ここにきて漸く、シャアは実妹アルテイシアのことをないがしろにしていたと気付くのである。

唯一の肉親であるにもかかわらず、そして、本当に地球にいるかもわからないアルテイシアのことだが、胸のロケットには確かに妹の写真を飾っているというのだ。

 

見方によれば、一方的なもの思いだろう。妹とは何の連絡もとらずだったが、いざというときに思い出し、勝手に思いを寄せる。さらに、妹がどうしているのかは知らない。

「どうでもよかったけど、なんか思い出した」ようなものだろう。ニュータイプの端くれであるシャアが、そんなことをしてしまうのだ。

それでも、肉親を想う気持ち自体は、確かにあった。そのことは事実だということが、この描写でわかる。

 

ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!そのララァを殺したお前に、言えたことか!」

劇場版ではこの台詞に相当するシーンとなるのが、アルテイシアを想うシャア、となるわけだ。

どちらも、シャアという人物像が垣間見えるシーンだと思う。

そしてどちらも、シャアは、近しい人とは既に決別しているという事実に対する感情を吐露するシーンである。これをシャアの哀愁と呼ばずして、なんと呼べるだろう...

 

(さらに、ベルトーチカ・チルドレンを締めくくる最後の一文が、「もう、ナイチンゲールのさえずりは聞こえなかった」である...)

 

 

 

 

●「あとがき」の衝撃

たいていの人間にとって、というか僕にとってやはり最初にふれた「逆襲のシャア」が映像作品のそれであったため、CCAといえば劇場版、というイメージの刷り込みがある。

しかし富野監督自身にとってはそうでなく、監督個人にとっての「逆襲のシャア」の原版とは、このベルトーチカ・チルドレンなのだという主張をあとがきで述べていた。

受け手と、作り手とで「作品」の像は違うというギャップというか、それを突き付けられる事実が、個人的に衝撃であった。

 

また、文芸作品には文芸作品の、映像では映像での表現するフィールドがあり、それは決して分野を逸脱すると作品としての良さを落としてしまうこととなる...というような記述もあった。

これには頷けた。

事実、このベルチルは、戦闘描写はあるもののそれらはどこか淡泊であり、また、描写そのものも会話劇のエッセンス程度という使われ方しかしていない印象を受けたからだ(もちろん、ストーリーを動かす、大局を動かすものは戦闘そのものであるため、これはもちろんなくてはならない要素なのだが)。

例えば、ベルトーチカが中破したリ・ガズィに乗り込み、うっかりグラーブのサイコ・ドーガと遭遇、戦闘となってしまうシーンがある。

その後の、戦闘での事実関係だけをいえば、

リガズィ、一度目の腰のグレネード発射→サイコドーガが易々とそれをいなして反撃、ライフルを撃つ→リガズィ、喰らったと思えたが、胎児の呼び声からかバリアーでそれを弾く→サイコドーガ、その光景に圧倒されて動きをとめる→リガズィ、その隙に再びグレネード放つ→サイコドーガに直撃、撃沈

これは、客観的視点からの戦闘を記述したとき、淡泊な攻撃の応酬と、片方の敗北という結果だけとなるだろう。

しかし、文芸作品として最大限魅力を発揮するのが、MSの操縦者であるベル、グラーブ双方の心的状況への記述だ。これによって、単なる攻撃の応酬でしかない戦闘が、やけに神秘性を帯びてみえるというか、象徴的なものに見えてくるのだ。

ベルにとって、迫りくるサイコ・ドーガの存在は恐怖でしかない。若く溌溂としたグラーブ操るそのMSの挙動は気迫を感じさせたろうし、それを残りの腰のグレネードだけで撃墜するというのは、絶望しかなかっただろう。

それでも、お腹の子と、アムロの近くへ行きたいという願いがあった。これが、絶望に対するベルの希望や、生への渇望であったはずだ。

そしてそれに呼応するかのように、お腹の子が叫ぶ。『だめだよ!』

意思の力が、実体があるかのようにバリアとなって、グラーブのビームを弾いた。

そうさせたのは、お腹の子の導きか、子を育てる覚悟を持ったベルの気迫か、とにかくそういった渇望する力の複合体が、ベルを守ったことが確かなのだ。

また、グラーブはその現象に対し動揺するが、彼もその子の声らしきものを聞いている。しかも、その声に対し『あたたかいな』という心底からの明るい感想を漏らしている。しかし、直後にその感動の中で絶命してしまう(この唐突で残酷というか、歪とも思える因果応報の駆け引きが、実に富野テイスト)。

戦闘の中で、ベルの気迫、グラーブの殺気から謎の感動、ベルの子の導き...といったものが描かれる。

神秘的現象に対する個人の心象というものの掘り下げは、文芸作品ならではのアプローチだと思える。

さらに面白いのは、「観念的なもの」という、文章で記述するにはやりづらいことを、文芸作品で、しかもそれならではの手法で描いているということだ。

 

 

リヴァイアスの挿入歌 「棘」

宇宙(そら)を 夢見ていたあの頃

今 心 壊れたかけら 

何か こぼれ落ちてく

 

いつからだろう 心は凍えていた 震えていた

どこからだろう 瞳には何も映らない

 

悲しみさえ さまよった あの夜に...

 

 

 

鳥は どこの空を 飛んでる?

あの風は ささやかないのだろう 

二度と ここには___

 

目覚めてみれば 心無い言葉たち 傷ついてく

眠っていれば 焦がれる炎 焼き尽くして

 

優しさにも 気づかない ふりをして...

 

 

ひとりぼっちで 蒼い夜の中にも 目覚めている

心の中で 育てた棘が 傷みの中

失われた 思い出の 血を流す...

 

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僕は、この曲をiPhoneに入れている。

音楽プレーヤーを携帯し始めたのが中学二年生くらいの頃。

同じ頃、鬱アニメとして有名であるということで無限のリヴァイアスを視聴した。

結果、とてつもなくハマった。

初週では、随所に流れるこの挿入歌である「棘」のことはあまり意識せずであったが、

中三になって再び視聴したとき、こんないい挿入歌が流れていたのか、と

再び衝撃を受けたことを覚えている。

 

以来、音楽プレーヤーにはこの曲を入れ、当時からヘビロテして聴いている。

その音楽プレーヤーがダメになり、次のプレーヤー、そしてiPhoneで音楽を聴くようになってからも、いまだにこの曲は、週に一度、数日に一度は聴き続けている。

 

無限のリヴァイアス自体、一部に人気、というようなアニメであり、決して番人向けの内容ではないだろう。

ましてやその挿入歌、というニッチさである。

 

しかし僕は、どうしようもなく退廃的で、一切のテーマ性もメッセージ性も訴えることなく、例えばエンタテイメントとしての在り方をも放棄しているような...

ただ「音楽」、「歌詞」、そのものがそこにあるものとして、

ゆったりと流れていくだけのようなこの曲が大好きであり、愛している。

 

いや、メッセージ自体はあるのかもしれない。

僕は、今までこの曲の歌詞について考えることがなかった。

しかし、こうして文字に描き起こして鑑みるに、歌詞の内容は

「現状認識と過去を振り返ったときにその虚しさに気づきつつも、また移ろうときを静かに過ごす」というようなものだろう。

 

これは、テーマをもつ創作物にあることの多い「現実は辛いが前に進む」ことへのアンチテーゼである。意図せずなってしまっている。

 

しかし、そうであるがゆえにこの曲は「聞いていて辛くない」のだ。

現状の不甲斐ない自身に嘆き、音楽や映画、漫画、小説といったエンタメものに安らぎを求めるとき、僕は「空虚そのもの」であるようなこの曲を聴くことで癒され、落ち着かされている。

 

自身の内面の傷に、染みるように強烈な劇薬を投与するのでなく、

まったくの安全性と無害を以って、ただその傷が「そこにあるもの」としてそっとなぞってくれているような感覚に包まれる。

それは、間違いなく「癒し」「安らぎ」の感覚だろう。

 

しかしながら、それだけを求めていると、僕たちは気の抜けたナニカと化してしまう。

そうはわかりつつも、辛いと言いたい。それでも、その気持ちを表出させて、訴えることは怖い。

「甘えるな!」この一言を突き付けられることが、怖いからだ。

 

だから、「辛い」という気持ちに同調してくれる曲を聴くことで、共感を得ているかのような錯覚に陥り、安心するのだ。

これが、とりあえずの安らぎであり、自慰行為である。

 

僕は、無限のリヴァイアスを忘れられないし、

「棘」も忘れられない。忘れることはないだろう。

感受性が鋭敏である思春期に衝撃を受けたものというのは、忘れることがないからだ。ましてや、自身の嗜好性のベースを作るものがそれとなるからだ。

 

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少し話は逸れるが、「現状認知をしたときの空虚さの感覚」について、

これと同じような想いを味わうものがあるな...と思い出した。

 

涼宮ハルヒの憂鬱」、ハルヒの踏切の独白する例のシーンだ。

(野球ドームので、観戦に行ったときに、その大勢の人間の矮小さを痛感し、自分がその一部でしかない、ただの一人でしかないことへの絶望を感じ取ったというアレ)

 

最近、まとめサイトを巡回していた(悪い癖である)ときに、

「このシーンが自分の人生観のベースになっている」という書き込みを見かけた。

 

 

ハルヒの価値観もだが、これに強い衝撃を受けている人だっているのだな、と僕は強い肯定感と共感を覚えた。

 

 

「棘」もそのようなもので、「翻って何かを考えたときに、ふと『なんでこんななんだろう』と空虚になってしまう感覚」を想起させるものだ。

 

多分だが、僕たちはそれぞれ、ふとしたときに思い出してしまう「痛烈なダウナー性をもつもの」を、自分がふれた創作物からそれぞれ覚えているのではないかと思った。

それが、キャラクターの台詞であったり、音楽であったりするのだ。

 

 

が、大抵の場合、「現状認知をしたときの空虚な感覚」のままでいては、ロクなことがないんだ。

そして、人と人がつくる社会というものは、そういう感覚に終わりを告げるような枠組みを作ってしまっている。

 

それでも、空虚さには浸りたくなる。傷だとか、かさぶただとかをなぞられることは、気持ちの良いことだから。

 

僕はたまに、根本的に人間が黙っていると、心身ともに下降してしまうのはナゼかを考えるときがある。

それは、銀河系の中心にブラックホールがあったり、地球に重力があったりして、

とにかく足場を下へ下へと引っ張る力が、産まれる環境に根本的に備わってしまっているからなのだと思う。

 

引っ張る力があるから、僕らは黙っているとそこに向かってしまう。

そこに向かってしまうことを、例えば「堕落」であるとか、「悪」であるとか言うこともある。

しかして、この宇宙も、僕らのいる星もだが、そういう力も存在することの要素として成り立っていることが分かっている。それは、多くの人たちの観測、科学によってだ。

 

なればこそ、「引っ張る力」も、大事な要素なのだ。「堕落」も、「悪」も。

それだけを欲してしまうから崩壊するのであって、決して不要なものではないということだ。

 

つまりそれは、僕が「棘」という曲と向き合うとき、

これをただ「癒し」の対象物としてだけか、

その後の行動を考えた時のセラピーの対象物としてかと捉えるかによって、その後が変わるということであるだろう。

 

先に、「棘」を聴くことが僕にとっての自慰行為であると書きはした。

 

そこから少し考えると、そういう感覚で聴くときもあるし、考える力があればこそ、そこから一歩進めるときもある。

 

...総括して考えると、「僕にとっての気持ちのいい曲」である。