はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

「ベルトーチカ・チルドレン」読んだ

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今更~~な感じ。

ひそかに、数週間前にamazonでポチって購入していた。

それを読了した。

 

 

富野監督の文芸作品は、10代前半の頃に読んだことがあったのだが、実は中々クセが強いな...とか、言い回しが難しいな、思っていて、途中で読むのを断念していた。

それから10年ほど経った今になってようやっと、(途中途中難しいなとは思うことはあるが)それなりにすんなりと読了することができた。

 

(本編の感想)

●チェーン→ベル

映像作品『逆襲のシャア』との大きな違いは、アムロの伴侶がチェーンからベルトーチカになっているということだ。

個人的にはこれは結構嬉しいことで(チェーンを否定しているわけではない)、かつて付き合いのあった女性とそのまま関係が深まり子を設けるという所までいっている、という事実に、アムロという人間の時間の流れと厚みを感じさせて、人物としての肉感がをさらに感じさせてくれるという個人的な思いがあるからだ。

 

●退屈なところ、展開のちがい

ただ、個人的には、プロローグを除いた前半のほとんどは、映像版と変わらない。だから実は、途中まで読んでいて少し退屈だった。もちろん、文章ならではの世界設定のディテールの掘り下げがあるから、それは楽しめるのだが、これはマニア的な楽しみ方なのではないだろうか。

しかし、終盤からはかなり展開が違う。

グラーブ(ギュネイ)やクェスが倒れるタイミングが違うし、ロンドベル隊はシャアの艦隊に最後まで劣勢状態であるということが鮮明に描写される。

しかも、最後の最後までアムロは、作戦単位でも戦闘単位でもシャアに苦戦する(僕はアムロ派なので、読んでいてちょっと悔しかった)。

 

●子がいるアムロ、父となるアムロ

アムロに子がいる」という、たった一つそれだけの事実だけで、少しずつストーリーは変貌するのだろうと思う。

また、その事実があるおかげで、アムロはこの作品ならでの台詞を口にする。

「万全の段取りを組んだし、赤ちゃんのためにも勝つ...違うな。シャアには、ベルトーチカのような女性との出会いはなかったし、子供も手に入れられなかった。しかし、ぼくには、ベルトーチカとお腹のなかの赤ちゃんがいる。この違いは、絶対的な力だ」

この台詞を読めただけでも、ものすごーーーーーく満足できた。

アムロは、自身が大人になったということをとても自覚している。さらにいえば、父になったということの実感だ。

この自覚が、主人公としての成長の重要なファクターだと思う。また、『子をもうけた』という事実がなければ、こう思うことはできないだろう。

が、これを映像作品として描いたとき、エンターテインメントとして、架空の世界への逃避先としての主人公の快活さは途端に失われてしまう。

父となる実感を描く必要が出てくると、その描写に重きを置かなければいけなくなり、その分、「戦士として」戦いを描くシーンを省かなければいけなくなる。それは、ヒーローとして主人公を配置する意味が失われる。...といった要因から、富野監督は「子持ちアムロ」という要素は劇場版ではオミットしている。

これは、正解だと思う。事実、媒体を享受しているときの「気持ちいい~~」という感覚は、ベルチルより、映像版の方が圧倒的に上だ。νガンダムは多少の苦戦はするものの、作中の誰よりも明らかに技量が上とわかる挙動をしてみせるし、易々と敵を突破し、あしらってみせるからだ(シャアとはほぼ互角だが)。

ベルチル版は、νガンダムの出番も少々削られているし、割と苦戦する。ベルチルのみに出てくる必殺兵器「ハイパー・メガ・バズーカ・ランチャー」も、エネルギー供給チューブを何度もクェス達に切られて不発に終わる。

シャアとの交戦時は先に一撃を受けたのはアムロの方だし(νの肩にビームを喰らう)、次には直撃さえくらってしまう。これは赤ちゃんが防いでくれたのだが。

そんなこんなで、ベルチル版アムロは、もちろんロンドベルのエースということは十分わかる働きをしてみせるが、イヤに現実的に苦戦をしてしまう。

この苦戦を、「父というアムロ」という実感を沸かせるファクターとして捉えられる想像力を持たなければいけないのが、ベルトーチカ・チルドレンという作品だと思う。

しかし、その想像力を以って作品に臨んだとき、より「アムロ像」を実感できる愉しみを得られるのが、文芸版「ベルトーチカ・チルドレン」というワケだ。

 

●シャアとナイチンゲール

アムロと対比して、シャアを考えると、シャアという人物像がより刺々しく感じられる。

作中での彼の最終的な求める所は、「真の意味でアムロとの優劣を図って、自身が勝つ」ということだ。

しかし、その出自や自身の政治的需要といった、元から付きまとう「しがらみ」が、シャア自身をわからなくさせる。「地球の人類を粛清し宇宙に上げ、人類全体のニュータイプ化を図る=アクシズ落とし」は、本音でもあり、建前でもあるのだ。

 

そのシャアの抑圧だとか、高慢さだとか、競争心だとか、複合的な感情が一緒くたになって出来上がった怪物が、人型とはややかけ離れた風貌をもつMS「ナイチンゲール」だ。シャアという人物像の象徴としてのナイチンゲールは、意外とアリな気がしてきた。また、映像作品じゃ動かしづらいであろうゲテモノMSを登場させるというのは、文芸作品ならではだ。

また、ナイチンゲールという名の詳細についても、冒頭の見開きカラーページで記述がある。「別名はサヨナキドリ、その鳥についても、ある場所では愛を告げる鳥とも、またある場所では死を告げる鳥ともいわれている」などだ。

 

νガンダムという名称は、メタ的事情を抜きにして、作中設定だけを考えれば、とても実務的な名付け方をしている。ギリシャ数字ガンダムの製造番号を数えたとき、13番目に位置するからν、そしてそれにガンダムタイプを意味する「ガンダム」の名を冠したというだけだ(ざっくりとした説明だけど許してください)。

 

対して、ナイチンゲール。これは、造語ではなく、古くからある固有名詞である。

人名としてでもあれば、先の「サヨナキドリ」の名としてもある。

突き詰めると、その名は様々な事象の象徴であるということが分かる。

νガンダムは、スタンダードな人型をしているが、ナイチンゲールはそうではない。

つまり、ナイチンゲールには、「特徴的、象徴的要素」が多い。

記号的なν、象徴的なナイチンゲールという対比構造とも取れる。

これが、搭乗者であるシャアの情感をより豊かにしてくれるものだと感じる。

 

そして、シャアは地球人類に対して「死を告げる(ある場所にとってのサヨナキドリの象徴)」ために地球圏に飛来してきた。深紅のMS、ナイチンゲールを伴って。

 

●シャアの哀愁

ベルチル版では、シャアとアムロ、二人の今わの際の会話が異なる。

というより、二人は会話をしない。νガンダムを中心として放たれる、人類の心が結集して放たれたような白い光をみて、ただ圧倒され、それぞれ独り言を漏らすというような具合だ。

 

そして、シャアはその光を見て思い出す。妹のアルテイシアのことを。

「......しかし、アルテイシア、この結果は、地球に住んでいるアルテイシアには、よかったのだな......」

 

ここにきて漸く、シャアは実妹アルテイシアのことをないがしろにしていたと気付くのである。

唯一の肉親であるにもかかわらず、そして、本当に地球にいるかもわからないアルテイシアのことだが、胸のロケットには確かに妹の写真を飾っているというのだ。

 

見方によれば、一方的なもの思いだろう。妹とは何の連絡もとらずだったが、いざというときに思い出し、勝手に思いを寄せる。さらに、妹がどうしているのかは知らない。

「どうでもよかったけど、なんか思い出した」ようなものだろう。ニュータイプの端くれであるシャアが、そんなことをしてしまうのだ。

それでも、肉親を想う気持ち自体は、確かにあった。そのことは事実だということが、この描写でわかる。

 

ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!そのララァを殺したお前に、言えたことか!」

劇場版ではこの台詞に相当するシーンとなるのが、アルテイシアを想うシャア、となるわけだ。

どちらも、シャアという人物像が垣間見えるシーンだと思う。

そしてどちらも、シャアは、近しい人とは既に決別しているという事実に対する感情を吐露するシーンである。これをシャアの哀愁と呼ばずして、なんと呼べるだろう...

 

(さらに、ベルトーチカ・チルドレンを締めくくる最後の一文が、「もう、ナイチンゲールのさえずりは聞こえなかった」である...)

 

 

 

 

●「あとがき」の衝撃

たいていの人間にとって、というか僕にとってやはり最初にふれた「逆襲のシャア」が映像作品のそれであったため、CCAといえば劇場版、というイメージの刷り込みがある。

しかし富野監督自身にとってはそうでなく、監督個人にとっての「逆襲のシャア」の原版とは、このベルトーチカ・チルドレンなのだという主張をあとがきで述べていた。

受け手と、作り手とで「作品」の像は違うというギャップというか、それを突き付けられる事実が、個人的に衝撃であった。

 

また、文芸作品には文芸作品の、映像では映像での表現するフィールドがあり、それは決して分野を逸脱すると作品としての良さを落としてしまうこととなる...というような記述もあった。

これには頷けた。

事実、このベルチルは、戦闘描写はあるもののそれらはどこか淡泊であり、また、描写そのものも会話劇のエッセンス程度という使われ方しかしていない印象を受けたからだ(もちろん、ストーリーを動かす、大局を動かすものは戦闘そのものであるため、これはもちろんなくてはならない要素なのだが)。

例えば、ベルトーチカが中破したリ・ガズィに乗り込み、うっかりグラーブのサイコ・ドーガと遭遇、戦闘となってしまうシーンがある。

その後の、戦闘での事実関係だけをいえば、

リガズィ、一度目の腰のグレネード発射→サイコドーガが易々とそれをいなして反撃、ライフルを撃つ→リガズィ、喰らったと思えたが、胎児の呼び声からかバリアーでそれを弾く→サイコドーガ、その光景に圧倒されて動きをとめる→リガズィ、その隙に再びグレネード放つ→サイコドーガに直撃、撃沈

これは、客観的視点からの戦闘を記述したとき、淡泊な攻撃の応酬と、片方の敗北という結果だけとなるだろう。

しかし、文芸作品として最大限魅力を発揮するのが、MSの操縦者であるベル、グラーブ双方の心的状況への記述だ。これによって、単なる攻撃の応酬でしかない戦闘が、やけに神秘性を帯びてみえるというか、象徴的なものに見えてくるのだ。

ベルにとって、迫りくるサイコ・ドーガの存在は恐怖でしかない。若く溌溂としたグラーブ操るそのMSの挙動は気迫を感じさせたろうし、それを残りの腰のグレネードだけで撃墜するというのは、絶望しかなかっただろう。

それでも、お腹の子と、アムロの近くへ行きたいという願いがあった。これが、絶望に対するベルの希望や、生への渇望であったはずだ。

そしてそれに呼応するかのように、お腹の子が叫ぶ。『だめだよ!』

意思の力が、実体があるかのようにバリアとなって、グラーブのビームを弾いた。

そうさせたのは、お腹の子の導きか、子を育てる覚悟を持ったベルの気迫か、とにかくそういった渇望する力の複合体が、ベルを守ったことが確かなのだ。

また、グラーブはその現象に対し動揺するが、彼もその子の声らしきものを聞いている。しかも、その声に対し『あたたかいな』という心底からの明るい感想を漏らしている。しかし、直後にその感動の中で絶命してしまう(この唐突で残酷というか、歪とも思える因果応報の駆け引きが、実に富野テイスト)。

戦闘の中で、ベルの気迫、グラーブの殺気から謎の感動、ベルの子の導き...といったものが描かれる。

神秘的現象に対する個人の心象というものの掘り下げは、文芸作品ならではのアプローチだと思える。

さらに面白いのは、「観念的なもの」という、文章で記述するにはやりづらいことを、文芸作品で、しかもそれならではの手法で描いているということだ。