はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

エヴァおもろすぎ

後輩氏からBlu-ray借りてて再び視聴していたが面白すぎて引き込まれている。

 

明らかに僕の人格に大きすぎる影響を与えた少年がいる。碇シンジだ。

 

彼の性格には未だに、嫌に重ねてしまう、無意識に彼のような精神性が自分に出てしまうことがあり、それはふと自覚した時に多大な自己嫌悪となって我が身に返ってくる。

そこで、彼のような14歳とは、もう歳が違うんだぞ、という自意識でぴしゃりと律することができたときに、少し現実認識をすることができる。が、あくまで個人の内面の話である。

 

 

 

…と、僕の性格性の話はさておき、

やはりエヴァ、「新世紀エヴァンゲリオン」…

「新世紀」を自称するにふさわしい出来だということは、痛いほど伝わる。

キャラクター、メカ、世界設定、ドラマ描写、作画、音楽、演出群…どれをとっても思わず語りたくなるような高水準の塊である。

 

本当に色褪せない作品だ。

ともかく、そろそろ寝ようと思うので、僕はこの言葉だけを綴って今日は寝ます。

 

「あんたが全部あたしのものにならないならあたし何もいらない」

 

最高の台詞だと思います。

 

アスカのシンジへの心情がどんなであるか、今になってようやっと分かった。

正直、自分が触れてきたどんなキャラクターよりも、彼女を理解するのは大変な気がする。

 

そして、アスカを愛せる、愛そうとしている、理解しようとしている人間はおそらく、懐がかなり深い人間だと思う。

そうなれるよう努力しようとしている。

 

 

堕落

暑い一日であった。

 

ほとんど、何もしていない。

仕事面で、休日にこなそうとした事はあった。

 

にも関わらず、分かっていながら、外へは出なかった。

 

理由は何か。

「面倒くさいから」だ。

 

時たま自分が嫌になる。

言葉をもらすと、その言葉は聞こえがよく、体面だけは本当に立派で、大言壮語というか、思想家のようなスケールで物事を綴ってしまう癖がある。

 

しかして、言葉を吐く自身が、それに全く見合っていない。

そのギャップに絶望をする。

 

だったら、何も言わない方がいい。

何もしない方がいい。

 

このように思う。

 

しかし、完全なる自己否定というのも、また不健全なもので、抑圧は必ずどこかに噴出してしまい、ストレスとして日常のどこかに進出したり、侵食してしまうものだということは、流石に理解した。

 

だから、「自己嫌悪」をそのまま自己嫌悪の感情として終えることは、それこそ、非生産的であると分かる。

 

…ほら、にしてもこれだ。こういう、自分に生産性があるか否かという悩みが、先の「大言壮語的」なんだよ。

生産性云々言えるような、上等な存在か?ということ。

 

…そのような悩み自体、どうでも良いことなのかもしれないが。しかし、僕は考えてしまう。

 

例えば。

他者が、道を歩くとき、目の前に大きめの石があったとしよう。そのまま歩くと躓き転んでしまうので、それを避けて通る、という選択肢が、ごく普通というか、何のことのないやり方だ。

僕は、恐らく、すぐに「避けて通る」ことが出来ない人間だ。

石の目の前で立ち止まり、

「どうしたらこの先に行けるだろう?」

「この石を、ジャンプして飛び越えてもいいかもしれない」

「そもそも、どうしてここに石があるのだろう」

「この石は、どんな材質由来なのだろう」

云々、考えた末に、

「あ、避けて通れば、進めるな」

と思いつき、その通り進める。

余りにも、ペースが自分本位なのだ。

 

 

…しかし、この解決策はとても単純で、

「じゃあ、行動すればいいじゃん」

ということだけだ。

とはいえ、行動にはエネルギーが伴う。

思うは易し、行うは難し…

 

人間、感情一つで行動を起こせれば、ものすごく立派なものなのだが、社会との関係、そして疲労など、多くのものと切り離せない世界に身を置いてしまっているため、行動するということは、大変だと思い知る。

 

気持ち一つでの行動には、限度がある。

となると、「やらざるを得ない」状況を作ってやるしかない。

 

 

それは、他人と関係を作るということだ。

僕は最近、それをした。

 

振り返れば、何もしていなくはあったが、そういう「ツテ」は作っていたと思い出した。

 

小説書きの創作する後輩に、キャラデザで手伝うよと言ったこと。

個人のイラスト教室に、また行きますと言ったこと。

資格の検定を来月25日に受けると決めたこと。

(これは、期間延長したけど。情けないが)

かつての女子の同級生に、またあう約束をしたこと。

 

思えば、行動はしていた。

そう考えれば、僕は良くなっているのかもしれない。

しかし、誰と比較してかは置いといて、本当に小さな、小さな一歩の歩みでしかない。

 

 

この言葉を書き綴っておこう。

「好きな気持ちを伝えるには ずっと想い続けるしかない

気ばかり焦るけれどコツコツ ひとつひとつ…」

SHIROBAKOという作品に対して、僕の好きなスタンスもこれでありたい。

 

誰の言葉か知らないが、このような言葉を、最近、常に胸に秘めている。

 

「愛は育てるもの」

 

これは、本当にその通りだと思う。

愛することは大変だ。そして、人間は、多くの物事を愛することができる知能をも有している。

愛は、狭く深くなんかでなくて、広く深く注ぐこともできる。

おおざっぱだが、「大変な努力」をしてこそ、それはできるはずだ。

 

 

 

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最近の買い物。

実は最近、オタク的買い物をしすぎた。

「散財」である。

来月から、また出費を控え、出費記録を残そうと思っている。

…でも、タイプライター買おうとか、買うガンプラ決めたりとかしてるけど…それはそれだ!!

とにかく、予定しているもの以外は買わないということだ。

買おうと思うこと、そして買い物をする時、買って消化をするとき。

「買う」という行動ひとつにも、これだけのカネと時間のリソースを費やすというのだ。

それは、今後オミットしていく。

 

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アーマードミュウツーらくがき。

一枚絵描くことをきめた。

アーマードミュウツー、かっこいいよ。

でも、色々思うことはある。

カッコイイけど、健全な、メカニクス論を更新する革新的カッコよさではないし、

「拘束具を纏ったミュウツー」という存在の考察に基づいたデザインではないことも分かる。

 

つまりこのカッコよさは、「商業的、玩具的、絵的な『ダーク的カッコよさ』」の追求にのみ焦点を当てたデザインだ。

 

それは、要するに記号的なものでしかない。

哀しいが、時代に埋没してしまうデザインなのだ。

しかし、埋没しない要素がある。

それは、アーマーを着込む「ミュウツー」自身には、不動の魅力があるということ。

ミュウツーの魅力談義をする時、話題の一つには上がることはあるだろう。

その点は、他の「忘れ去られるメカニクス」とは違うところとも言える。

 

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ラクガキ。オリロボ。

これに描いてる「ウェアラブル・ファザー」という文字があるが、同名の作品を、いずれ創作したいと思っている…

 

衰退し、存在価値やその必要性を問われることが薄くなってしまった今日の「ロボットアニメ」、そして「巨大ロボット」というものの意義を捉え直して、時代の文脈に即した「巨大ロボット」を描写したいと思いから、ちょっと構想を練っているものだ。が、その前にやることあるだろ。そういう所が駄目人間である。

 

…しかし、日本のアニメーション史を語る際、「ロボットアニメ」「巨大ロボット」の存在、想像力は、必ず切り離せない、とても大きな一要素として存在していることは確かだと僕は感じている。

ロボットアニメは無くならない。でも、そこに胡座をかいてイイわけでは、決してない。

 

ロボットアニメのみならず、他のアニメ然り、時代の文脈を忘れてしまっている作品は存在する。それは、「作業に追われてしまうから」だ。そして、そのような作品は、哀しいが、必ず埋もれて行ってしまうのだ。資本主義社会というシステムの中には、本当に残酷としか言いようのない、このような現実が存在してしまっている。

そうならないためには、「訴えるものの意味性」を常に考えなくてはならないし、その訴え方をも考えなくてはならない。

 

 

ほら、まただ…また、身の丈に合わないスケールの話をする…

 

 

 

 

斉藤さん・女の子を考える

またもこういう時期がきた。

男女について考えるとか、『生身の女性』を考えたくなる...というような時期が。

 

それで、生身の女性と接点をもちたい、と思ったとき...

手軽なのは、マッチングアプリでなく、例の『斎藤さん』と感じた。

 

接点というほどではない。会話をし、価値観を知りたいと思ったまでなのだけど。

 

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16歳くらいの子と話をした。

2時間ほどである。

 

会話は、盛り上がった。

彼女は明るく気さくであった。しかもアニメなんかが好きであり、波長の合う人であった。

だから僕も、素の、キモ・オタク的なテンションで打ち解けることができた。

 

だが、オタク話というより、僕はその人の『実像』が気になる人間である。

人の内面、造形を掘り下げて、自分で想像することが、とても楽しいのだ。

で、想像と実像を照らし合わせるかのように、それとなく質問をする。

そして「ああ、そうか」と納得をするのだ。

 

 

何に興味があって、どんな人と接していて、どんな時に嬉しいのか、どんな時に嫌な思いをするのか...。

 

そのようなことを、話してくれる人であった。

だから、年は二回りほど違えども、なかなか会話を続けることができた。

 

しかし、年下は年下である。

そして、この関係性は、「(画面を通じてとはいえ)プライベートで接点をもった24歳の男と16歳の少女」なのだ。

親戚だとか、業者とクライアントとか、どこかのサークルの中とか、そのような「つながらざる」関係性ではない。

 

この関係性は、淡泊なものだ。

結局、年は離れているから、自身のおかれている環境の違いには、肌感覚での共感は難しいだろう。

また、「つながらざる」関係性などではないのだから、いつだって関係を終えることができる。

 

だから、このように、接点を得たと思っても、それ以上に無理にコミュニケーションをとろうとするのは、ちょっと大変なことというか、苦労しかないことのような気がする。

 

それでも、今後の接点を作ってしまった。会話をしようと思えばできるような、「つながり」を作ってしまった。

結局僕も、人を知りたいとか以上に、人恋しくなるような人間でしかない。

だが、だからといってなぁなぁな態度で終えるのは嫌だ。

彼女にとって、とかでなく、僕自身にとって折り合いのつく接し方を考えてみたい...とは思った。

 

そして、このように妙に小賢しく落ち着いてしまうのが、僕が未だに童貞であるということの証左なのだろう。

こう理屈は並べていても、結局、「ああ、こいつ年下だ。ガキだろ!子供に付き合っていられるか」と思っている自分がいるのかもしれない。

自分は大人らしい大人などでは決してないくせに。

 

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彼女の造形。

 

16歳の高校生で、田舎に住んでいる。

アニメやゲームは好きで、youtubeやニコニコで実況者だとか声優の動画を嗜んでいる。

二次元っぽい男アイドルユニットが好きで、それにとてもお熱だ。ライブに通う予定なんだそうだ。

 

好きなアニメは、ジャンプ系。熱い少年スピリットのようなものに心を惹かれる。

親がゲーム好きなもので、現行機種だけでなく、ファミコンなんかもやっている。

で、youtubeRTAに触発され、自分も初代マリオでやり込みプレイをしている。

 

学校では、テストでは英語が苦手気味だが、他教科はそれなりに良い点数。

地頭は良い方(っぽい)。

 

...というようにキャラ設定のように記述をしてみた。(どうせ大した人数観てないだろ精神からけっこう詳細書いてるけど...)

 

 

んーー、こういう人に関しては親近感からか想像力が沸きやすいが。

パリピ」系の人を掘り下げるの難しいなぁ。

 

なんでこんな考え方するんだろな...。

 

 

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正直僕は、楽になりたい。

誰かを愛したい。彼女がほしい。

そうすれば、その人のことを考えるだけで良くなると思う。

その人のためだけを想うというのは、幸せなことだろうと思う。

 

その人のために振り回されることも、試練と思わば幸せだと思えよう。

ストレートにいけないやつは...置いてかれてしまう...!!!

 

 

 

グランベルム 2話 感想

今後が楽しみ!!

  • みどころ

→満月の造形描写

時系列は、2話のその日一日が朝から始まり、夕方に終わるという形式。

それに合わせたストーリー展開がなされる。

個人的に面白かったのは、放課後、夕暮れ時からの展開。

教室で居合わせた満月と新月

「誰に言われてもいないのに、なぜ黒板消しなどするのか」

という問いに、「それ以外にやれることがないから」と答える満月。

そこから、満月の独白が始まる。

他の人には、何かしら才能があり、それが自信となって、日々を謳歌できている(と満月は思っている)。

しかし、自分には何もない。勉強ができる、スポーツができる、ムードメーカーである、...等々、周囲が秀でているものに比べ、何も持ち合わせていないということを新月に告げる。「あなたにだってあるはずです」という慰めの言葉すら遮って。

 

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 「隣の芝生は青い」という言葉があるが、満月にとっては、まさにその念に囚われた日々を送っていたのだろうし、それをバネにして日々を努力してきたのだろう(彼女は周囲の者の世話をするということに対して、人より進んで出来ている(家庭の弁当を作る、先の黒板消し等)描写があるのだが、それが本人の長所だと自覚できていない)。

自身が他者より「できている」ことはあるのに、全くそれに気づかず、常に自責の念に囚われつつ日々を送る。

 

何らかのプレイヤーとなれることにあこがれる彼女が、魔術師たちの戦いの情景を見せられたことに対し、戸惑いと同時に、「自分もそこで何者かになれるかもしれない」という期待を持つ。揺れる気持ちが、「参加する」という方へと振り切ったとき、夕暮れ時の光庭の花々が一斉に咲く。

この叙情的なワンシーンはとてもよい。

そして、魔法と由縁なきものならば、このような状況は創り得ない。

無自覚にそれをする満月。彼女の才覚に可能性を見出したかのように、戸惑いと驚きをみせる新月

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満月の心の動きと、それをビジュアルで表す情景描写のリンクが中々魅力的。

(キャプみると、新月のランドセル浮いててちょっとおもろいな。でもいいシーンだ。)

 

新月の「魔法の解釈」

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『術によってこの花は美しい花を咲かせた。しかし同時に、本来咲くべき時に花をつけることは出来なくなってしまった。運命を狂わされたのです』

 

『魔力はその比ではありません。その強さゆえに、本来進むべき道を狂わせ、本来あってはならない事を可能にし、本来存在しないことすらあったことにしてしまう』

 

『その力を手にすることは、決して素晴らしいことではない...!』

人より秀でている、『才覚』とは、本来自身の根幹たる自信や、他者からの評価につながるものである。

しかし、彼女は魔法のことをそうは評さない。

彼女にとって、『魔法』とは、身に付けた『才覚』なのか?

ある日突然、強制的に身に付けさせられたものなのか。

理由こそ定かでないが、彼女にとっての魔法とは、『出過ぎた力』という解釈なのだ。

だからこそ、魔法の存在に否定的である。だからこそ、このような持論を発する。

 

綺麗に咲いた百合の花々。それを前にし、否定の感情を吐く新月。この矛盾したような二要素の混在が、このシーンの光る所だ。

(また、深読みかもわからないが、咲いている白百合は、満月の乗機「ホワイトリリー」と名を同じくする。

時期尚早に咲く百合の花は、ホワイトリリーの力の目覚めが早すぎることの暗喩かもしれない。つまり、満月がホワイトリリーに乗ることの悲劇性の暗示である)

 

  • 悩ましい所

→カット間の端切れの微妙さ

非戦闘回だから、全編同じようなテンポで進めていい...という訳ではないだろう。

どの会話も同じようなテンションと間で進められるため、「ここ!!」というシーンがちょっとわかりづらいというか、気迫に欠ける感じがした。

この回で重要なのは、後半の新月の独白~花が咲く、という部分であろう。

個人的に、この辺りは色彩をもっとどぎつくしたり、ここだけカット割りが明らか他と違う、みたいにしてくれても良かった気がする。

つっても好みの話かもしれないが。

 

→アンナ一派の描写

この作品は群像劇っぽい気質をみせていると思うので、

単純にギスギスしか見せていないアンナ達3人のやりとりは、見る側にとってはあまり気持ちのいいものではないし、どのような背景からそうなっているのか、という事情は現状示されない。

作中のヴィランとして、もしくは同情の余地のある、運命に囚われた少女として彼女を描くのかも分からないが、どちらにせよ、今後の掘り下げ次第か。

 

  • 気になったネタ

新月の磁場操作

最近の話題 120-1-66

こういうのが元ネタ?

要するに、一般論としてあるような、「スマホやPC,ゲーム機などが発する電磁波的なものが、使用者の脳に悪影響を及ぼす」というアレの解釈を膨らませたものか。

 

  •  少女の「戦闘服」としてのアルマノクス

魔術師たちの戦い、それに用いられる器たるアルマノクス、という構図だ。

この構図では、アルマノクスが「魔法少女になる」ことでも代替可能ではないか。

という懸念が、僕の中にはある。

つまり、この作品は、単純に、ロボの出てこない、少女たちが魔法少女に変身し、魔法をぶつけ合うバトルロワイヤルとしてでも成立するのではないかということだ。

しかし、「魔法少女バトロワもの」はこれまでに幾度となく登場している。

その部分の差別化を狙って、「魔法少女」ではなく「ロボ(それもディフォルメ頭身)」というちょっとした変化球で今作をぶつけてきているというのはわかる。

 

この作品のロボ要素が、代替可能な一表現ツールとして埋没してしまうものなのか。

それとも、ストーリーや世界設定の根幹になくてはならない、さらに言えば、少女たちのキャラクター性の象徴としても強く訴えるものたりえるのか。

それがどちらに揺れるかが、この作品の今後の見どころの一つになるだろう。

何気に、「魔法少女たちのロボ戦闘もの」なんてありそうでなかったし、期待なんだよな~~~。

ガンダムはじめ、「少年にとっての巨大ロボット」は、未成熟な身体の少年が、先を行く大人たちと同じ土俵に立つための「代替」、もしくは「拡張身体」として機能してきた。

しかし、今作のように、物語の根幹が「少女たちの戦い」で、「大人」という要素を排除し、更に主人公は「少年」ではなく「少女」ときている。

つまり、今作におけるロボの役割の果たしどころは、自らと同年代の「少女たちの戦い」にどのようなコミットメントをみせるかということだ。

くやしい

上司は嫌われ役を自ら買って、僕らにあれやこれやと指摘をする。

恩もあったし、その役目をすることは分かる。

しかし、悔しい。

 

自身を蔑ろにして指摘をするその姿が、悔しいのだ。

 

後輩に理不尽を着せたくない。

反論材料を持って反論をしたい。

 

そのためにやる事をやってやりたい。

アニメ

後輩の一人が、かなりサブカル好きというか、メインがエヴァのオタクであった。

趣味嗜好の範囲は、かなり似通っている。

「こっち側の人間」ということで、かなり話があった。

そして、お互い、物を言うにも歯切れよくズバッというとかでなく、言葉を言う間も、まちまちであったり、明らかに好きなものに対しては、興奮して口数が多くなったりするのだ。

 

 

 

好きだ。

 

 

それは、自分もそうだという、シンパシーからだ。

 

 

 

 

………………

今期みるもの。

●グランベルム

ロボアニメだから。一話目わりと好きだった。

ディフォルメ系メカのアニメは、僕はあまりみてこなかったし、そういう世代でもない。ので、リアタイでこういうもの観るのもなかなか楽しい。

そして、少し前の僕なら、このアニメは見なかったであろう。

なぜならば、女の子のキャラデザに不満を抱いていただろうからだ。

今、アニメ全体というものの流れを少しずつ俯瞰し、受容できるようになった僕には、そのような壁はない。無敵である。

同時にそれは、更にダメな奴になることを意味している。

 

●荒ぶる季節の乙女どもよ

岡田麿里女史がガッツリ関わっているということで視聴。

女子間で繰り広げられる男子的な下ネタの応酬が、聞いていてこっぱずかしいくらいだが、そのキレッキレ具合と安直具合には草しか生えない。終始ニヤニヤしながら観れる素晴らしいアニメ。

 

 

●彼方のアストラ

まだ未視聴だが、漫画は読んだので、アニメも観てみようと思う。漫画、おもろかったものなぁ。

 

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手癖たち。

 

 

 

…………

それにしても、無気力症候群に陥りました。

言い訳くせぇな〜〜。

 

休日、無理矢理でも外に出た方がいいな。

無性に落ち込む。