はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

バック・アロウ 1話 感想

うーん、おもろい!

舞台設定も物語展開も、第1話としても起承転結も、そしてキャラ配置云々、
それらすべて「単純明快」なのだけど、

だからこそおもろい。

すんげー快活な第一話であった。
(快活すぎて主人公は全裸である)


●世界設定
「世界の果て」というものが存在していると信じて疑わず、その存在を絶対としている民。
作品世界のテクノロジーは、「壁」という絶対存在由来であると信じて疑っていない。
という人物構造。
ステマライズされた世界に生き、それに疑問を持たない人間達と、その構造に混入する「イレギュラー(バック・アロウ、シュウ・ビが該当)」という要素にどことなくアーサークラークというか「都市と星」的なものを感じた。
若しくは進化論以前・以降の生物観とか。天動説から地動説への地球観とか。


●キャラ配置
・【レッカ凱帝国】三国志っぽい、中国大陸っぽいキャラ群
・【エッジャ村組】ウエスタン風、どこか牧歌的な「仲間の人たち」
ニュートラルだが強烈な存在「バック・アロウ」
第一話で明かされたメインキャラ群配置による陣営と世界構造。
キャラデザで体格・服装ではっきりと区分化している為わかりやすい。その為お話もすんなりと入ってくる。
お話を駆動するのが、強烈な個性を放つ主人公バック・アロウ。
彼は世界について何も知らない。異邦人であるらしい。
彼の立ち位置は、視聴者の目線の代替である。
何も知らないので世界のことを周囲の人間から教えてもらうしかない。
それは視聴者も同じなので、主人公の目線=視聴者の目線となり、「この世界」を教えてもらう描写もスムーズになる。第一話だからやけにどこかメタ的・説明的になる、とかいう問題をここでクリアーしている。

●メカ描写
谷口悟郎作品のおもしろい所は、「ロボットアニメ的」に必ずしないということだ。
必ず「人間」の描写、その主張を描き、その遂行装置としてのメカという描写を行う。
同作もそのイマジネーションというか、それがこれまでで一番分かりやすいかもしれない。『人間の願望器・拡張身体たる巨大ロボット』をストレートに描いている。
同作の巨大メカ(?)群たる「ブライハイト」は『搭乗者の信念をメカの能力、外殻として出力する』という説明がなされる。まさにこれが「拡張身体」的な巨大ロボットのイマジネーションそのものである。
そして僕は、ずっとこういうものを求めていた。
工業兵器的メカニクスとして、『画』としての巨大ロボットが描写されるのでなく、人物描写の延長として、「劇」や「物語」の象徴的存在としての巨大ロボットを描く。
端的にいえば、エヴァがわかりやすい。
ガンダムでは、商業的事情からこの両面を尊重した画面づくり、物語展開にどうしてもせざるを得ない。(脱線するがその中でもオルフェンズは後者を重視していてすごい良い攻め方をしたと思う)
しかし、1から作りあげるオリジナルアニメとしてのメカアニメにはそのような制約は存在しないので、後者の「拡張身体的」メカ表現に特化することができるのだ。

攻め方は違えども、そう考えると、純粋に「拡張身体」としての描写を行う同作は、エヴァに近しいイマジネーションがあるのかもしれない。

一言で言う。絶妙に、「ありそうでなかった存在のブライハイト」。


「楽しい作品」でありながらSFとしての噛みしめ方もできそうな同作。
すんげー楽しみ。

あと、谷口悟郎作品の強烈な「漢(たち)」を描くという作風(カズマと劉邦、ヴァンとレイ、ハチマキ、ルルーシュとスザク等)と、中島かずきの「主人公が勢いで風穴を空けていく(纏流子やシモン、みちるちゃん、未視聴だがプロメアもか)」お話づくりがすんごいよくマッチしてると思う。

なんというか、「めっちゃ気持ちいい組み合わせ」だ。

2021年1月10日

土曜日の夜。中学時代の部活の仲間たちと「オンラインビデオ通話」をした。
今から6年も前になってしまうが、成人式以来に話すメンバーもいた。
だからとても懐かしかった。
そして皆、案外住所が変わっている訳でもなし。相変わらずであったりで安心もした。
このメンツの中には、既婚者もいる。

中学時代のクラスメイトで結婚したのだ。
その夫婦でこの飲み会に参加していた。

ビデオ通話中、「夫婦漫才」を何度もみせられた。
僕は、心底ほっこりし、ほほえましかった。
嫉妬も何もなく、心の底から「仲良いの見せつけてくれちゃって~、このw」と思えた。

僕は、この彼・彼女が結婚式を挙げるということを知っていたし、その当時は一応招待もされた。でも、その時はいかなかった。
時間がなかったワケじゃない。
こう思ってしまった。「婚約祝いとかでカネかかるだろうし、いいや」とか。
「結婚とか、はやすぎだろ」とか。おめでたいと思う気持ちはあったが、それ以上に蔑む感情や、「面倒だ」、というネガティブな感情の方が強かった。それが理由でいかなかった(当然こんなことを断り文句にはしなかったが)。

そして今思う。心底思う。そんな風にした僕は、心底後悔している。
その同級生夫妻は、結婚して3年ほどになるそうだ。
その後の生活の色々なんかも、この時に聞いた。大変だとは思う。でも、楽しそうだった。
だから、幸せを願っている。


僕は、自分にしか興味がない。
今は、そんな自分が好きだ。と思う。
人間的に生きている気がするからだ。


だが、案外、そんな風なプロセスでも、自分を好きになることで他人も好きになれるのかもと思えた。

多分、社会人になってから心持ちが変わったのかもしれない。
イヤでも、他人の色んな面をみるし、ときには向き合う必要もでてくる。
イヤでも、共同体の中にいなければいけない。

だとしたら、同じ共同体の中の人たちは、憎むとかどうというより、ある程度の連帯感や愛着を以て、もしくはフラットな感覚で以て接することのほうが、生きていく上で健全に思えた。

そういう心持ちになった。

多分、世の中の多くの人が言っている。
この感覚は、
「大人になってその辺変わったんだよね」とか、「働くようになってからは変わったんだ」
とか。そういうことなんだと思う。

しかし...僕は、そういう心持ちの変わりようを、「大人になった」の一言で片付けたくない。何故かはわからないが!!!

多分、「大人になれよ」とか、「ガキっぽ...」みたいな言葉が、大っ嫌いだからだ。
なんと形容すればいいのだろう。

 

そして...

このような回を画策した目的。

nagisaseer.hatenablog.jp↑の記事における「あの人」と近づきたかったからだ...!

 

(現在進行形でハズカシイ人間の自覚はあるが、過去の記事あさるのもやっぱハズカシイ...)

 

そして言いたい。互いの歩む時間が、違っていたとしても、僕がどれだけ幼稚であったか突き付けられることになろうとも、

「好きだ」と、今度こそ、「付き合ってほしい」と、はっきり伝えたい。

 

 

が、今回「あの人」は不参加。

なんとか話でもできるようにこぎつけます。

2021/01/09

外すんげー寒い

 

こないだ買い出しにいく途中バイク一時停止してたときに前の車がバックしてきてかわしきれずバイクごと僕も倒れた。

 

幸いにもバイクも僕もなんともなくて

車もそんなでもなかった。

 

その人と念のため連絡先を交換した。

その日の夜、めっちゃ向こうの人から「大丈夫ですか?」と心配された。

むしろ逆になんか人に心配されてちょっとほっこりしてしまった。

それはそれで僕の精神状態がおかしいと思う

 

マジでただの日記すぎて草

 

2021/01/08

最近自覚しつつある自分の嗜好:
人同士の肉体的・精神的なつながり
無機物と有機物の対比的描写
ヒトのむき出しになる悪らつな感情

●最近の消化物

・(漫画)先生のせんせい
とあるネット記事で、BLイマジネーションにおける「オメガバース」世界なるものがあると知った。子を宿すためのセックスは、男と女という区分けで行われるのでなく、射精も妊娠も誰でも可能であるという世界だ。そしてオオカミの生態を模して「アルファ」「ベータ」「オメガ」という区分けがその世界の人間には成されている。性別による区分けでなく、階級的区分けによって、根本的な「存在」の区分けがなされている。そしてそれは、男女という根本感覚とはまた別の、分別感覚と階級感覚を伴う「社会的な感覚」だ。
 BLどうのというより、このイマジネーションがとても面白い。というより、人間の営みが、例えば経済のグローバル化なんかが進んでいたり、モノの情報化・非物質化が成されていたり、時代は進んでいくと流動し、形骸化こそせずとも、「カテゴライズの破壊と創造と再生性」が成されていくと思っている。それは人間が「古来そうである」と無意識に感じていることにも当てはまると。その古来云々が、「男」と「女」という感覚だ。
人間は、セックスをもハックできると考えている。クローン技術や人工授精などが近いか。
これらは「セックスのハック」のイマジネーションに近い。
そしてもう一つ、SF的に好きなのは、もはやそのような社会様式が「当然のもの」として認知されている社会で描かれる、「人同士の関係・セックスの形」ということだ。
つまり、作為的・説明的に、登場人物が設定についてわざとらしく語ったりおおげさなリアクションをとる、というのではなく、既にその世界にいるのだから、当然のものとしてそれを授与して生きている。これを言語化するのは難しいのだが、作品世界として一歩イマジネーションを踏み込んでいる。
さて、そんな世界の作り込みを入念に考え込んでおきながら、そうして現代人感覚における「男性同士の恋愛=BL」を行う。
言い方を悪くすれば、BLというものを合法的に、当然の行為とするための一種の舞台装置がオメガバースである。

ガンダムオタク的に考える。ガンダムでは、巨大人型ロボットが宇宙でチャンバラをするために、スペースコロニー、地球連邦とジオン、ミノフスキー粒子、メカを「モビルスーツ
」という兵器群として設定した。このような背景があるからこそ、メカバトルがフィクションであるとわかりきっても、どこか現実感を感じさせる「嘘八百のリアリズム」を体感できる。
「先生のせんせい」も、男同士の恋愛を実現させるための「嘘八百のリアリズム」を用いているということだ。
織りなす物語はラブロマンス。しかし同時に、SFとしてもとても面白い考え方ができる作品だ。


・(小説)悪童日記
読了。戦争があり、子ども達は生き延びるしかなかった。
「ぼくら」はとてもたくましく生き延びる。肉親の血をすすってでも生き延びる。
戦争、占領が当たり前となる異常な状況下で、それさえも利用して。
そんな子ども達を、「悪童」と称する訳するセンスは巧みだと思う。
僕は、「ぼくら」を悪童とは思えなかった。
同作には、「ぼくら」に全裸でむち打ちをされることを望む変態将校がいる。
この気持ちは、ちょっと分かる。
そして同作には、現代人的感覚でいうニュートラルな価値観をもつ存在の人物は出てこない。
略奪、餓え、暴力、セックス...そういったものと隣り合わせの現実。
そしてそんな日常と現実を、巧みに利用し乗り越える「ぼくら」。
その様相は「悪童日記」の表題通り、日記という文体で淡々と、しかし描写は具に描かれる。

・(映画)パラサイト
めっちゃめちゃに面白かった。作品の起承転結、2つの上流・下流階級、そしてよりアンダーグラウンドな存在という対比に一ひねりを加えた構造、画面空間の「丘の上の豪邸と地下のボロ家」といういったりきたりの関係。画面やストーリーの「両極端」が絶えず描写されるお陰で、お話的な緩急が大きくなくとも、会話劇のひとつひとつで作品のリズムそのものの抑揚を感じ取ることができる。そして、それが物語のストーリーラインに沿って「転」の辺りで大きく揺れ動く。序盤から終盤へと、どんどん展開が衝撃的になっていく。
ものすごく精巧で素晴らしい作品だと思う。諸々の要素が複合的に絡み合いつつも、「持つモノ」「持たざるモノ」の二つに収斂されていく。
「パラサイト」というタイトルも本当に秀逸。というのも、僕はホラー映画かなんかだろと思って観たらまったく別の意味の、「社会的寄生虫」ともいうべき半ば蔑称のようなニュアンスでのタイトリングだとわかった。そういった「だまし的」、印象をつかむテクニックも巧いと思わされた。

・(映画)殺し屋1
セックスとバイオレンスが大好きだ。
「殺し屋1」は、『冴えない僕が悪いヤツらをぶっ倒す』、例えば王道的異世界転生モノやガンダムなんかにも近しいイマジネーションから物語構成が作られている気がする。
そういう意味でもこの作品は、オタク的に地味に親和性があり、入り込みやすい。
実写映画版の同作は、スプラッタムービーとしてどんなものかと気になって視聴した。
所々あからさまな特撮的グロが入って草を生やしてしまったが、舌の先っちょを意識を保ちながらナイフで切り裂いていく描写なんかはとっても精巧で、「うわあああ痛い痛い!!!画面から目ェ離したい...けど観たい...!!!」という本能的な嗜虐心や俗的感覚をすごく刺激される。
あとこのくらいの(2001年)年代の作品の映像感覚というのかな。そういうのがすごく好きで、脱バブリー的で、ミレニアム感というべきか。サイケデリックパンクというべきか。
リヴァイアスやrain、リリイ・シュシュのすべて、バトルロワイヤル、みたいな、ああいった作品群の映像感覚が本当に好き。そういう文脈というか流行みたいのがあったんだろうなぁ。

会社を辞めることが確定"させられた"

3月末を以て、職場の事業所を閉鎖するという通知を上司・社長からうけた。

僕は、当然「はい」とだけ答えるが、
その時の率直なリアクションとして、内心ワクワクと開放感でいっぱいだった。

やっと辞められる。しかも堂々と辞められる。
というより、勤め先が消えるのだ。

これは当人の都合じゃどうしようもない自体であったから、上司方がそのツテを使って
再就職先の斡旋も段取りしてくれるらしい。

選択肢が多いというワケだ。

しかし、同業他社は死んでもイヤだ。

そして、そのような選択をできるということも、とんでもない贅沢なのだとも実感をする。

僕は、自分でお金をつかみ取って生きているわけじゃなかった。
結局の所、会社というレールに、上司が用意してくれたレールに従ってその選択を得ていた。
ナニも考えずにレールに乗っかることは、ゆるやかな死を意味するのだと思う。
そもそも、本当は、レールなどというものは存在しないのだ。

3年間今の会社に勤めて、率直な感想は、こういうことしか出てこない。
世間的にみれば、やはり薄っぺらな若者の感想だというものなんだろう。
でも...はばたきたい。はばたいて、傷つきたい。それでまた、大きくはばたきたい。

だから、今までこの会社にいたことの時間の全てが無駄であるとはとうてい思いたくない。
なので、今はこの会社にいてできる限りのことをしようと思う。
人生のうちの3ヶ月間だ。この期間が終われば、否が応でも終わるのだ。

”この先にどんな地獄が待っていようとも、お前を!お前たちを!俺が連れて行ってやるよ”
とは、某団長が放った言葉だ。

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大人の期待。
上司の期待。
上司は、業界で何十年と務めている。このような事態の重みは、僕には計り知れない。
だからこそ、道半ばで場所を失う僕らへの想いがどのようなものであるか、
想像以上のものがあるのだろう。

僕がこうして感傷的になれるのも、えげつのない話であるが、
そうなれる余裕があるからなのだろう。

人から期待を受ける身。まだ身軽である身。将来性はまだあるとされている20代という、若者であるという身。

だからといって、感傷的になりすぎたところでどうしようもない。

そのような自分の都合の良さを知った上で、改めていいたい。

これは、僕にとって好機であると。
どのみち辞めようと思っていた僕にとって、願ってもない機会だったのだと。

少なくとも、会社を去る動機に、自己都合退職ではなく、会社都合退職となるのだ。
「興味もてなかったんでラクになりたくて会社やめました^^」と、
「コロナの影響で会社の営業資金を確保できなくなりその都合で解雇通知を出されて、云々....」というのだと、後者の方がマジメっぽく聞こえる。

2021/01/05 『悪童日記』

ブックオフで古本あさりをしていてつい購入。20%引きだったので200円そこらで中古で買えた。

 

MOTHER3にハマっていた14年程前。

リュカとクラウス、二人の兄弟の名前の由来は、同作からだと聞いていた。

 

また、この作品は、おどろおどろしい描写が続く作品だ、という評をネットでみていた。

 

まだ読み中で、今日から読んでいるくらいなのだが、それはその通りだと思う。

 

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同作の主人公『ぼくら』兄弟は、行動にためらいがない。

というより、そう見える記述をしている。

というのも、「日記」という描写体を成しているからだ。

作中、『ぼくら』が文章の記述について「客観的に書く」ことを徹底するシーンがある。

これがそのまま、この作品のテイストになっている。

全て、「ぼくら」の見た聞いたことの記述の域を出ない。

 

AがBした。結果、どうなった。

 

もちろん、そんな単純な文章の連続ではないのだが、このような記述の連続からでも、『ぼくら』の異常性と容赦のなさが垣間見える。

そして、『ぼくら』の内面は決して描写されない。そのため、このことが解釈の想像を膨らませる。

 

というのが、100ページほど読んだ時点での感想。

それにしても、日記という体でワンシーンワンシーンで区切りつつも、しっかりとストーリーそのものは進行しているのでテンポがとてもよい。すらすらと読める。

 

そのような、読み手にとって読みやすい工夫というのが、まさにプロフェッショナルを感じさせるし、それこそ文芸であるとも実感する。

2021/01/04

恋愛的なことでいうと、もしかすると、というイイかもしれないことがあった。

そのことに本当にときめきはした。

が、それと全く別の、フィジカルコンディションの話をする。

深夜まで食い込んで話し込むというのは、体力を消耗する。
で、正月休みという、規制という非日常は、僕にとってとても刺激が強い日々であった。
それは楽しいことであると同時に、その日常非日常のギャップが、とても哀しいがストレスであるとも実感をした。

であるが故に、休日は休日として、ゆったりとリフレッシュという訳にもいかなかった。

そしてそれは、僕に限った話ではないのだろう。


正月期間中、一日休みであったのは2日のみ。
1日も3日も、内勤の事務作業量が普段まし膨大であったり、当然朝刊業務もある関係で出勤は必要だ。それさえ終われば帰れるのだが、、、「それさえ」だけでもゆうに7,8時間は要してしまう。

と、いうわけで、心底休まる気が正直しておらずだ。

今日も頭痛である。


と、ここまで書いたがネガティブ質が強い。

これは愚痴である。が、因果関係の記述など、その具体性を強めたものであると信じている。
要するに、「日常」から逸脱したことをけっこうしてしまっているものだから、
そのストレス、睡眠不足、長時間労働etcでかなり参っているという状況だ。
そこからくる副次的な食生活や部屋内の片付けの乱れなど。