はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

最近の関心

●「何かの業界のプレイヤー」の話題

●「将来的に、もしくは現在、周知された価値を高めている分野」の話題

●「ポップカルチャーなもの」

●「源流にあるもの、原典であるもの」

 

 

端的にいえば、「新しくて面白い、熱っぽいもの」の話題がスキだ。

 

どれも抽象的な書き方だが、僕は正直、そのような書き方くらいしかできない。しようがない。

 

その関心を示す、「ふれている」作品や本などは、

テレビ番組だと

NHK「プロフェッショナル」,「歴史秘話ヒストリア」、「人間ってナンだ」、「ジューダイ」、「なつぞら」、「ダーウィンがきた」

あとは、Mステ、A応Pのあにむす、なんかである。これらは主にながら見、飛ばし飛ばしでしかないが、世俗が知りたいので。

あとは、月曜から夜ふかし。僕の関心とは相反するものかもしれないが、なんでだろうな。不思議な面白さがある。「巧い」B級映画のような、洗練された自虐感というか、「俗である」ことを徹底的に自覚している作品観が心地よいのだ。それが、「結局、僕は俗人であり、バカだ」という根底の自己嫌悪というか、自傷意識みたいなものにフィットして、心地よいのだ。

しかし、時たま、典型的な、そして半ば無理やり行う「いじめ」に近い構造に、ひどく憤りや、嫌悪感を覚えはするが…

 

で、本だと、宇野さんの「リトル・ピープルの時代」読んでいる。

正直、最初はまだ読みやすいかと思っていたが、村上春樹の作品の批評から、主に70年代以降の社会構造と個々人の意識の変化についての論は、時たま難しくてよくわからない。

今思えば、これがはじめてまともに読む「評論本」だ。とりあえず、通読します。

 

 

宇野さんでいえば、最近Youtubeで「スッキリ!」に宇野さんが出ている回を録画したやつの動画見てたんだけど、あれで扱われる話題があまりにも…この表現は極力使いたくなかったが、「低俗」すぎて言葉も出なかった。「午前のワイドショー」ってこんななのか、と、正直本当に絶望した。

そして、そのような番組に出た宇野さん自身も、ひどく絶望を味わっただろう。

コメントを求められた際、たいてい一言しか言わないのだ。というかそれもそのはず、「一言しか言いようがないような話題」に過ぎないからだ。

しかも、周囲の論調と宇野さんのそれがズレていた場合、「でもこうこうは思いますよね?」なんて価値観を押し付ける。

虫酸が走るとはこのことだと思った。

 

そして、そのような宇野さんの態度に思わず笑みを漏らす女性。誰だったっけ、てかそんな人間誰でも構わないんだけど、とにかくそのような感性も唾棄すべきものだ。

物事についての個人の想いをしっかり吐き出している、「批評家」として、そのプロフェッショナルとして至極まっとうな行動をしているのに、その遂行態度が「風変わりである」と認識し、それを「笑いの対象」にしているから、笑うのだ。しかも、「思わず」笑う。

つまり、そのような人に対し、反射的に笑うということは、根底的に意識の持ち方が「ティピカルな大衆層」と「攻撃して良い異端者」という思考停止にもにた二項対立の意識を確立してしまっているともいえる。

このような意識構造こそ、現代において本当に、絶対悪だと僕は断じる。

 

右ならえで、程度の差はあれ主張自体は同じことを言いあって、それで笑うような「身内のノリ」なんて、テレビというものがパブリックである自覚全くないよな。

論理構造を無視して、かつ極論を言うのであれば、それならまだテロリストや重犯罪者のほうが社会的価値をもっているぞ。

 

…と、大きく話題が逸れてしまったところで、今日の話題は終わり。

 

ちなみに、先の動画、見ていて「本当に何もならないものだ」という絶望から虚無感をひどく味わわされた。

だから、僕は毎日の日記は、今でもそうしているつもりではあるが、見る人にとって「読後に何か引っかかりを残すもの」であるような内容を記すことを誓った。

 

僕の日記は、誇張表現はない。

自分の目で見た、触れたものを、自分というフィルターを通じて嘘偽りなく、書くべきはしっかり記述している。

 

なるべく、「自分のナニかを削って」記事を書くようにします。

そうすれば、このような駄文とはいえども、読後に「時間の無駄であった」とは思わないでもらえるだろうから…

しかし、無駄であったと捉えられれば、僕はその程度の人間であるということだ。