はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

まどろみ心地の仕事

本当は、窮地に立たされている。

にも関わらず、焦るでもなく能天気に仕事をこなす。

 

こなさないと後でやばいな。とは思いつつも。

どうせここで仕事なくなっても…次があるし、という甘い見込みからも、そのような能率に陥ってしまう。

 

連休というものをじっくり過ごしてしまうと、面白いように僕のメンタルに揺らぎが生じる。フワフワとした揺らぎだ。

その揺らぎは、決して外界と通ずる方なく、自らの心中でのみ揺れるのだ。

それは、「今の居場所は、自分のいて、善い場所か、否か」という揺らぎである。

 

結局のところ、根源的な悩みは、いつもこれだ。

1年間ここにいて、僕の根幹の揺らぎは、やはり変わることがなく、それはどこか浮遊感を伴う、「ここにいていいのか」という悩みとも言うべき感覚だ。

 

地に足をつけられていないのか。

いつだったか、僕は「揺れてやる」と述べた。

まだ、またそうなるのだ。

 

マルチタスク要因を見つけ出しては除外し、一本集中しようと意気込みはした。事実、より多く自らのリソースをそこに割けるようになった自覚はある。

しかし、そうした結果として、究極的に、それと社会の接点が何もなければ、何もならないのだ。

つまり、僕は、これが本当に苦しいことだが、

「自分の好きを、社会と繋げること、ぶつけること」をしなければならないということだ。

そしてこれが、現代社会を生きる人間として、何らかの定義を以って「子供」「大人」を分けた時に、「大人」として有るべきための条件なのだと思う。

 

会社という傘に守られ、そこで自らの道を考えることなく、ただレールに沿ってこなしていくだけでは、動物的であり、それは子供と変わらない。

 

今は、こう割り切っても良いのかもしれない。

「翼を広げ、未知の土地を拓くためにはばたこうにも、人間には翼がない。では、翼をつけるためにはどうすればいいか。

まずは、資源の調達である。それから、「翼」をつくることである。

翼が作れないのなら、外注できるのならばすればいい。外注には、コストがかかる。

そのコストを調達するため、やはりまずは労働と対価によって、翼を外注できるだけの資源を手に入れるのだ。下の下の段階として、労働を行うということを、翼ではばたくという大目的の最小項目として設けるということだ。」

 

 

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