ガンダムナラティブみてきた(ネタバレ感想)
こうやってみると色々粗く作っちゃったなぁ...。
本題!
タイトル通り、ガンダムナラティブみてきた。
結論から言うと、
めちゃ・面白かった!!!!
どこから語っていいのだろうか、、、話題をある程度分けて書いていきます。
●ビジュアル
キャラクターデザイン、人それぞれの好みはあるだろうけど 僕としては特に好きでも嫌いでもない感じ。
主人公のヨナバシュタの「普通の若者」っぽさいいよね...(無個性っぽいゆえに忘れられそう)
MS作画に関して。ナラティブは意図的に細身にしているのかもしれないけど、
全体的にシルエットはマッシブで肉厚に、しかし描写はスピーディに表現しているのが個人的にすき。(ユニコーンはMSの重厚感を表現がちょっと誇張気味で、鈍重に思えたから)冒頭23分のマーサ護衛団VSルオ商会なんかまさにそれが顕著で、
グスタフカールVSディジェなんか両方マッチョだけど両方グイングイン動いて戦う...みたいな。こういうのはオタク受けっぽい描写だけど、やっぱりオタクなので心がときめいてしまう。しかもディジェだよディジェ!さらに部隊運用されていて特殊部隊チックなダークカラー。本当にカッコイイ。
ナラティブ版ディジェはよ~~~~!!!!!!(新規造形でサーチライトも...)
ナラティブガンダム。素体については、ν以前の試験機、軍縮の時代、ガンダム秘匿、等デザイン上の設定上の制約が大きいなかで致し方ないデザインだと思う。
で、A装備も序盤のフェネクス捕獲にのみ使った(しかも未遂に終わる、味方誤射しかける)くらいで見せ場という見せ場はないのだが、メカニカルなギミックはバッチリ披露。特にサイコ・キャプチャーのギミック、とても面白い。
クタン参型的な外付け大型ユニット、ナガモノ装備はさすがに胸を打たれる。これに関してはプラモが欲しい。とてもほしい。
B装備。コロニー内戦闘で用いたのがこちらで、むしろこっちのが活躍していたかも。シルエットはフィンファンネルだけど武装はインコムなんだと。
ケーブル巻取りギミックなどの演出がメカニカルで胸をうたれた。
正直こっちもカッコイイ。
フェネクスの挙動もわけわからなくてイイ。「スラスターの後光じゃない」という補足もあってか、エフェクトや挙動はかなりやりたい放題。「人間が乗っているのか?!」というシェザール隊の疑念は...
●ストーリー等の感想
サイコフレームや、ニュータイプの解釈についてを掘り下げる内容、というのが今作だと思った。
同時に僕個人として、通してみた感想は
「普通の人間でもニュータイプたりえる」ということだ。これは前向きなニュアンスである。
今作の主人公、ヨナ・バシュタはこれといったキャラクター的特徴が見受けられない。
意図的にオミットしているように思える(もちろん幼少期をニタ研で過ごし過酷な実験生活を強いられた等は常人とは違うが)。
さらに、ヨナが「普通の人」であることは作中でかなり強調される。
・ナラティブが着艦、外付けユニットを外して素体があらわになるところと、
重く着込んだヨナがパイスー外して肉体をさらすところ。
ナラティブの素体に対し、フランソンが「やせっぽっちだな」というのは、ヨナに対して言っているようにも見える。
やせっぽっち、身体的特徴も(やせ型気味かもだけど)特にない、つまり普通の体の持主であるということ。特別太っていたり、筋骨隆々であったり、身長が極端に低かったり高かったりするわけではない。
・ヨナの経歴。作中でイアゴ隊長が言及していたが、士官学校卒の一士官(レールの上で生きてきたような人間なのだろう)で、特異な点は(ニタ研時代を除いて)ない。
・MS操縦に際しても、「中の上」とシェザール隊から評される(序盤のディジェの動き観たらエース級だろ!と思うが、メタ的にも「普通の人」が許される範疇で物語を進めるギリギリの強さとしての限界が「中の上」という評価なのだろう)
「自分はニュータイプなんかじゃない、普通の人だ」とうすうす感じている視聴者がいたとする。そのような人にとって、歴代のアムロやカミーユ等のNT的な高い能力を発揮した人物たちは、もはや「感情移入の対象」を通り越して、「自分とは違う」という距離や、諦念すら抱いてしまうかもしれない。
しかし、ヨナは違う。どこまでいっても「普通の人」なのだ。
(これまでのNTの超常的要素を知っているような)視聴者の感情移入を誘うという点であれば、ヨナはともすれば感情移入の対象として入り込みやすい造形だったのかもしれない。(というより、「造形」すらほとんどされていない気がする)
そんな普通の人・ヨナ。彼にとっては、過去のリタとの決別が心の大きな枷になっていて、20年近い長い間そのことに囚われている。
ヨナが普通の人らしいのは、外見的・キャリア的特徴だけでなく、本人の心情もそうなのだ。
宇宙世紀世界の情勢、社会的諸問題、等の「大ごと」に関心があるわけではなく、
気がかりなのは、ただ自分が見捨てたかもしれない、打ち明けられなかった想いがあるリタへの後悔の念のみ。
つまり、「目の前の自分の人間関係の悩み」だけを気にしているのだ。もちろん宇宙世紀世界からみれば、リタやヨナはニタ研のかつての実験材料、フェネクスに関わる人物、等大きな計画に関わる人物たちだが、ヨナとしてはそんなことよりも、リタなのだ。
ヨナはとにかく、過去の後悔やしがらみに対して、向き合いたい。あがきたい。
これは、「宇宙世紀の人物」としての人物像というよりは、いてもおかしくない、ごく普通の人の心理状態だと思う。
サイコフレームや、ナラティブの存在、フェネクス、あくまでもこれらはそれを補助してくれるツールに過ぎない(というには豪華すぎるか?)。
そのようなリタは、外装となるガンダム、コアファイター、重いパイスー諸々を脱ぎ捨ててリタ(フェネクス)のもとに駆け寄る。
リタが鳥になりたいというのなら、自分も。フェネクスは不死「鳥」というのがまた...胸が熱くなる。
ともかく、普通の人でもわかり合える。超常的なものは、そうであってもいい。
土着的な「わかり合う」というか、「意思疎通をする」ということに対するメッセージを感じた作品であった。
サイコフレーム・ニュータイプ設定の解釈についてはかなりカッチリ論ぜられたところがあると思うので、そこの理解が難しいが設定拾っていってる所。(こういうことをするのは感想とはまた別のところよね)