レールに乗らざるを得なくなったはずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

勉強……を早速できなかった

アアアアア!!!!!

 

寝る前にパラパラっとめくることだけはする。

 

仕事が片付かない。

そして、終わりが遅くなり、家でも作業をし…という有様。

 

どうすれば良いだろう。

僕は考える。

降りかかるタスクを、とにかく終わらせるのであれば、いくら時間をかけてしまおうが構わない、という考えであった。

そして、残タスクが、一度ゼロになってしまえば、そこからルーティンワークしつつで、考えながら仕事ができるようになってくるだろう。

…という、幻想を抱いていた。

これは…本当に実現できるか?

 

「運命とは、理不尽である」

「自身の運命の行く末は、自身では決して占うことはできない」

これが、ニーチェのいう言葉だった筈だ。

それら理不尽は、受容することで、次に進む糧とできる。

何事も、思い通りには行かないということだ。

だから、「運命愛」の概念が必要となってくる。

 

 

…………

SHIROBAKOマジで面白いな。

社内の行き違いだとか、伝達不足で起きる諸々のトラブルだとか、本当あるよね。

でもそれがこう、作劇で描かれると、共感できるけど、なんか物凄く滑稽で面白いんだよな。

自身を俯瞰したときの可笑しさという感覚を思い起こさせてくれる。

そう思うと、気楽になれるし、気力も回復する。

 

 

僕が今日見たのは4話だ。

この話では、「エフェクトは、3DCGで表現するか、手描きで表現するか」という問題が描かれる(本題は、それよりも、この問題から発生するスタッフ同士のすれ違いだが)。

この問題は、まさに今という時代で、人類全体が深く考え、向き合わなければならない問題と思っている。

 

オートメーション化か、クラシック方式か。

 

どちらも一長一短である。

自身が丹念に作り上げた成果物が、デジタル方式ではその数分の一で出力される。

それを目の当たりにすれば、「俺のは何だったんだ」という否定的感情、自身の尊厳を脅かされる動揺を隠せずにはいられないだろう。

 

しかし、手作業を重んじる者が、機械化に対しての文言は、いつもこのようなものだ。

「汗水垂らさずできたものに、感動なんてあるものか」

「俺はこんなに苦労したんだぞ。ふざけるな」

このようなロジックは、感情ありきのものである。

「機械化」と「手作業」を共存させるに、両者を納得させられて、かつ、体感としてそれを腑に落ちるような、論理的、身体感覚的にフィットするロジックが、今という時代には必要とされる…と、強く思う。

一方の側が、他方を否定するのではない。

「合理性」と「情緒性」の共存…これが、理想的な機械化と手作業の両者のあるべき道だと感じる。

そして、このような二項対立を以って語られることなどない時代が来るのなら、それほど嬉しいことはないとも思う。

 

僕たちは、かつて動物だった。

そこから「人間」とされる存在へと移り変わるにあたり、ある能力を身につけた。

それが、論理性である。そして、言葉である。

これは、刹那的に行う行動が、どのような因果から生じたものかを、体系的に解説することを可能にした。

同時に、言葉というものが、それを発信することを可能にした。

 

僕たち人間の営みは、本来後付けであるような論理性をも考察し、実証することを繰り返し、そうして世代を重ねることによって、

論理に裏付けられた行動を、手順を簡略化させ、瞬間的に行うことを可能としてきた。

それは、進化とか、洗練といえることであろう。

 

であれば、合理化を求めて生まれてきたような作業形体、作業媒体が登場するのは、至極当然といえよう。

 

しかし、地球に命が生まれて、一体何億という時間が流れたか。そして、人間というものの歴史自体、その内で、まだ長くあった訳ではないだろう。

命が、人間という形体を有するまでは、言葉などもちえなかった。それは、「合理」を持ち得なかったということだ。

 

まだ僕たちの遺伝子の中に、永く紡がれてきた、動物としての記憶が残っている。

だから、その時その時を必死に対処し、うまくやっていくための力がある。それが、感情や、情緒だろう。

これは、決してないがしろにしてはいけないものだ。

 

 

……話、まとまらないね…。