はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

片寄涼太特集について/キャラ売出しのメカニズム

https://youtu.be/GNZCmRPoMSM

 

片寄涼太特集をみてみた

●視聴動機:インターネッツで知り合った10代(だと思う)の女の子に僕の描いたキャラクターをみせてみた。本人はかっこいいとは思うが推せるほどではないとの評。タイプでないということか。そこで当人のタイプを聞いた所、一人に上記の人物(片寄涼太)が挙げられた。「王子様感」が好きということだった。
ひとくくりに、「10代女子の好きっぽいものはどんなか」というカテゴライズは、人の好みをカテゴライズして感受性を蔑ろにする節があるようで、少し後ろめたい部分はあるのだが、「一例として、こんな好みがある」という一つのパターンとして、片寄涼太特集を視聴してみた。

●動画の構成
・ダンスをする①講義を交えて
・ダンスをする②実演、キレッキレ
→制服コーデから秋らしい、アースカラー主体の大人感のあるジャケットスタイルに
→踊ったときになびくジャケットが動きを演出するぜ。
・ピアノを弾く
→芸を披露。上手さをアピール。とみせかけてちょっとミスする。
→人間アピ。かわいいアピ。周囲の「こういう風にノれ!」という声にも応えるサービス精神。
→「ギャグ線」あるぞ。すてきな笑顔だぞ。
・「距離感の近すぎる女はNG」を語る。
→真面目な貞操観念にキュン♡女性陣から賞賛をうける演出。
・「お手々キレイだね」→大きなお手々を披露する
→大久保佳世子、涼太くんとお手手合わせ。
「イケメン王子とまさかのスキンシップをする冴えない私」系演出。
・持ち歌とグラビアっぽいシーン集。いろんな涼太くんの一面がみれるぞ!
→いろんな笑顔、たくさん食べる君がすき、いろんな事をする涼太くん
~FIN~

なんというか、「好きにさせる存在としてのアイドル」というわけだ。
別に全く否定のニュアンスがあるわけではない。

僕の考察。

●第一印象、ダイナミックに(キレッキレのダンス)
●笑顔!!
●簡単には落ちないぜ!な俺様(遠回しの「好きになったら君に一筋」を想起させる)
●オフのときの一面、ギャップ萌え

というもの。

これらが揃えば、好きになるだろ!!

という具体。


これらの魅力の描写に、大前提で、「ルックスが『好きになれる域』に達している」がある
いわゆる「※ただしイケメンに限る」とは近いがまた別で、
たとえば社会人がよくいわれる、身だしなみは清潔に等をクリアーしているか、その上級版のようなものと思っている。

「この人は好きになれる人だ」という部分をクリアさえすれば、
当人が魅力的な行動をとればプラスに傾き、そのプラスの積み重ねで「好き♡」の感情ができあがるというメカニズムだ。

というかこれ、男性アイドルを好きになるプロセスというよりかは、
一個人(キャラクター)を押し出して好きになってもらう『キャラクター商法』の分析にも近しくなってしまった。

まあでも、得られるものはあった。

自分が、男性キャラクターを魅力的に描写しようとした場合、
描写プロセスの原則を踏まえれば、好きになってほしいユーザーには好きになってもらえる可能性が上がるのではないか、ということだ。

以上。

 

余談だが、この「好きになってもらうプロセス」の踏まえ方は、対象人物(キャラクター)の性別・更に言えば人間であるか否かも問わないものだと思っている。

 

だから、個々人の「好き」のなり方の違いだけなので…

何を言いたいかというと、男性アイドルを好きになる女性、女性アイドルを好きになる男性、この精神的図式は同様のものなのではないかということ、また、同じような心象の動きを見られるくらいには、男女の精神的差異は昨今そうないのではないかという所感がある。

これはいいことだと思う。

なぜなら、「男性ならこれが好き」「女性ならこれが好き」というパッケージングを崩すきっかけたりえると思うからだ。脱線するのでこの辺で。

 

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兄妹設定。並べると楽しい。

 

 

10代女子ウケしそうな感じのデザイン考えたけど、

赤髪よりの茶髪って人気あるのいたかなぁって感じ。

僕の描き方も地味なのもあってどうなんだろって感じだが、個人的にはイケメン描けておきに。

 

男キャラ人気だと主流がすとぷりとか鬼滅とか刀剣とかFGOとかか。ヒプマイも?

 

とか考えるとなんかこういじるところある気もする。

ブレンパワードという作品

ニコニコdアニメストアにて、富野監督の『ブレンパワード』を視聴した。

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●余計な前座
僕は、小学校六年生くらいの時にこの作品の存在を知った。
当時、中古で第二次スパロボαをプレイしていた(同作に「ブレンパワード」が出演している)。そのときの感想は「ブレンかっけー」程度のものでしかない、表層的な理解であった。
そして、OPも知っているくらいであった。このOPはわけがわからなかった。

それから、大学生の時にこの作品を視聴した。
「うーん、意味不明!w」という半ば短絡的な感想で、10話いかないくらいで視聴をやめてしまった。

そして、今。富野監督の思想史を知りたい一心で、純粋にこの作品を楽しむことができた。
そういう意味では、こんな言葉は使いたくないのだが、「大人向け」に近しい作品なのかもしれない。視聴者にもある程度観る度量を要求されるというか。
が、一度通しで観ただけである。やはり、理解をするのが難しいとも、ちょっと思ってしまった。しかし、感動ができる。この感覚は間違いない。

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アサルトリリィ3話

アサルトリリィ3話の感想

ざっくり

・お話多方向に情報量多い

・キャラめっちゃいる

・ゆゆさまの過去、悲劇、ひたむきなりり、今と過去の対比、良くなったかもと思える今

 

三つ目が主題だろう。

がどうにも説明的な展開が多くて、設定を飲み込もうとしてるときにあっ山場シーンなのかみたいな感じでぶち込まれて感動すべきとこなのねここみたいな感じになった。

架空性の高い世界における設定説明は必須ともいえようが、「説明するパートです〜」「ドラマチックなパートです〜」みたいなカチカチしたシーン分けだとなんか観るの大変だ。

 

他のキャラクターに過去のこと喋らせるとか、設定喋らせるとかしてるんだよな。

正味それだと起こした設定をただ読み上げて紹介してるだけみたいな機械的な印象をうける。

 

というかそれを削ぎ落としても今回のドラマは成立したろうし説明パートの余分感があった、

りりの優等生感がストーリーに引っ張られる主人公感がちょっと否めない。

 

と、色々と書いたけどお話としてはりりとゆゆを中心とした女の子たちの関係性のいきつく先は気になるので見続ける。

 

バトルシーン、女の子たち、ビジュアル面はすんげーかっこよさとかわいさ全開。

 

お花と女の子という組み合わせ、そして戦場で散っていく女の子達という儚さを花に例えるなら「散華」だろう。そのようなどことなく情緒感を漂わせる雰囲気はとても好き。

 

さらにいえばなのだが、彼女たちは無機質な冷たい鉄塊ことcharmをそれぞれ装備している。

たおやかな女の子、そこに組み合わされる暴力の象徴たるcharm。その歪さを表現してくれればと思うのだけど、「各自持っている物で、戦うための武器、派手な描写のためのガジェット」以上の表現が為されていないのがちょっともごもごする。

キャラがいてお話があるのか、お話の基にキャラがいるのか

アニメや漫画

 

●キャラを配置⇨ストーリーテーリングの順

「このような人物がいて、そうなると対比的にこのような人物もいて、…」とパッチワーク的に配置していく。

これはちょっとシステマチックな配置。

構図を決めてお話を作るのであれば、話も、キャラクタ像も破綻はしづらいかもしれない。

しかし記号論に近いものを思わせる。

「Aという現象について…

・極度に反応を示すαちゃん⇨ハイテンションカワイイ

・無視するβちゃん⇨クールカワイイ」

というような、局所的キャラの(記号的)描写の連続でお話を作る。

受け手にとっては、心地良さと愛着を与える(あくまでキャラ表現主体の為、描写そのものが視覚的に刺激的であっても、劇そのものは並列的に描写されるため、安心感があるだろう 例:サザエさんとか日常系4コマ。)単純接触効果に近いか。

 

●お話の基にキャラを配置する

「伝えたいことがある」のが始点。テーマありき。そのため、それを体現できる者が主人公となる。

こちらはあらゆる面において諸刃の剣に近い。

また、「面白いお話を提供する」、エンタメの提供ありきの為、キャラクターそのものは「キャラクター」というより、「主人公という枠の人物(名前や容姿などは、極端な事を言うと代替可能)」という印象を与えがち。

記号論を脱しがちだが、物語の中に人物が呑まれる。

ただし、お話そのものへの没入感を味わいたいユーザにとっては、主人公というより、「お話の中で主人公がどうなるのか・何をするのか」という『体験』を重視したいかもしれないので、極度な主人公のデザイン的・性格的主張は控えるべきかもしれない。

どちらかといえば映画的・小説的手法。

 

 

 

●漫画やアニメのダイナミズム

上記2シーケンスを、なるべくシームレスに織り交ぜている手法で物語展開ができると、ものすごく面白い、魅力的な作品たり得る気がする。

そして、これができることは、線を減らし、二次元上に「人物」を描写できる漫画、アニメの特権であろう。

しかし難しいのは、織り交ぜる事を意識しすぎると、それはそれで平坦な作調になってしまうのでは、と言う事だ。

 

とはいえ、マスの受け手の感受性には時代性に大きく左右される面もある。

「絶対的な魅力」は、

作り手が作品に真摯に向き合っているか、

また、同時に、向き合いつつも独りよがりでない⇨「見せる事を意識した」、「受け手がいることを忘れない」、あくまでもいい意味での「原則」をクリアしたものであるか、

なのだと思う。

 

多分、東京だろうか、スクランブル交差点の青信号の中を歩く最中であった。

 

腕時計を確認する、朝の6時になるかならないかという時間だ。

 

にも関わらず、陽はだいぶ登っていて、景色はほとんど白色光に照らされるかのような色合いだった。

しかし、空の青さは、秋特有の色そのものだった。

 

すれ違う人々。

 

こんな時間にも関わらず、たくさんの人が外に出始めていた。

外に出るに然るべき格好をしていた。

 

誰もマスクをつけていなかった。

強い違和感をおぼえた。

しかし、「ああ、僕もマスクをしなくていいんだ」と内心安堵し、僕もマスクを外した。

 

結局は、呼吸を煩わせるものだから、外すとやはり開放感を覚えてしまった。

 

そのまま、交差点のちょうど中腹まで歩く。

その辺りで目が覚めた。

 

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こんな光景は、違和感しかなかった。

まだコロナ騒ぎは収まっていないし、だからマスクを誰もつけていないのはおかしい。そもそも僕の現住所からして、こんなに人混みのある街中はありえないし、早朝にここまでの人混みがあるなんておかしいと、とても冷静にその光景を眺める自分がどこかにいた。これは夢の中であるという認識が微かにあった。