映画『恋する寄生虫』の感想
単刀直入な話
そして 好きか嫌いかだけの感情論で書き殴ります
よかったね(真顔)
で終わった。
これもなんというか
「君と僕」と
「世界」を、ほぼ継ぎ目なく繋ぐ物語だ。
自己の視野の範囲そのものを「世界」と認識し、それの崩壊を望むことをそのまま「世界の終わり」だとか、「自己の死」ととらえる…という価値観。
で、その根底の価値観を共通させる男女が出会うことにより、
「これ以上ない、運命的な、僕と私だけの、人生で二度とない恋愛…みたいなやつ。
否定はしない
否定材料をもたないからだ。
また、そういう価値観を通底させる人同士のやり取りというものに、ああだこうだいうという次元でものを語る人間ではありたくないからだ。
なので、今の僕にとって、どう捉えることがこの映画を鑑賞した僕の感ずることなのかをいう。
白状する。
今現在の僕には、惹かれるところがあまりなかった。
人のパーソナルな部分への掘り下げへの興味が湧かなかった、とか、僕が齢を重ねたとか、たぶん、色々あるのだけど、
率直な感想は、「そこまで惹かれなかった」だ。
というか、やはりなんというか、結局的に絶望なんだよな。
主人公と、ヒロインは、ある種社会から隔絶された環境におかれたからこそ
その境遇同士で共感を得ることができた。
物語のラストは、自分らが否定していた「社会」=クリスマスツリーに群がる男女のカップルたち と同じ行動、つまり「メリークリスマス」とか、「キス」へと帰結することによって幕を閉じた。閉じてしまった。
どういうことかというと、社会へ還るしかない。所属するしかない。
否定していた「世界」を、肯定せざるを得ない。
それ以外の可能性を提示しない終わり方というのかな。
「〜でないなら、〜でないなりにやっていく」
じゃなくて、
「〜でなかったけど、〜でやっていくしかない(と突きつけたその瞬間)」
というニュアンス。
「じゃあ教えてくれよ、この仕組みの深さを破壊する方法を…」
への回答はないんだ…ハサウェイ…
…と思った。
こう思う僕の視点は、たぶん、「君と僕」がおかれた「環境」にどう所属するかのあり方を少しフカンした見方だと思う。
もっと視点を狭めてみると、寄生虫と人間が共存可能で、それでも愛し合うことが、通じ合うことができたから、良かったね。
…とみることができる。…かもしれない。
けどね。
ぼくは…それに「本当か?」と思ってしまう。
思ってしまう、年齢になったのかもしれないし、元からそういう立ち位置の人間だったのかもしれない。まあそれは置いといて、
こういうのの腑に落ちないところは、「周囲の感謝」の欠落なのだと思う。
「先生」は間違いなく、この二人を(理由はともあれ)救うのに尽力した。
し、現実のフタゴムシというのは、そもそも、人間に無害であるようじゃないか。
もちろん、学説では、とか、そもそも寄生虫の人体実験なんて冗談じゃないこともあり、これは完全な情報ではないかもしれない。
…が、
それが無害であると分かったというのは、そもそも、寄生虫さんと人間の「無害性」を調べるためのやりとりがあったからということだ。なぜ調べるのか?人のためだと思う。人のためだと思いたい。
もっと単刀直入にかくならば、「仕事をする人さまをなめるな」なのか。
でも、これは本当に正しくない感想だと思う。
誰にも、誰彼なりのロマンスがあっていいと思う。
だから、先述したけれど、「僕には否定材料がない」なんだ。
ロマンス映画をみるといつもこれだ。
僕のセンチメンタルへの違和感見たいのがいつも浮き彫りになって、自分はつまらない人間なんじゃないか、そういう純真さがないんじゃないかと不安にさせられる。
しかし、時たま浴びようと思う。
そうしないと、自分の感受性が如何様であるかを知ることができないから…(ってこの物言い何にでも言えるやん!!)
追記:フタゴムシのくだりこれ勘違いしてたと思う
なんかフタゴムシが主人公とヒロインに寄生してる前提で語ってるけど劇中は未知の寄生虫?がふたりに寄生して…だったと思う
フタゴムシ自体は物語のキーとして引用されるに止まってた感じ?
どうでもいいけどハインライン先生からお医者先生を主人公にして年齢30近くとかにするんだろうなぁ…(ほんとにどうでもいい)